近頃考えたこと
浅学菲才の戯言と言わず
恰好良くエッセイと呼んでください)

2006年1月27日







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羆説

 唐宋八家に数えられる柳宗元の散文集をパラパラめくっていて、非常に短いが時節柄とても面白い説を見つけた。八世紀末から九世紀初頭という大昔に、政治的には左遷されていて不幸だったが、詩人・文筆家としては大いに活躍した柳宗元が、現代にも当て嵌まるようなことを言っているのが愉快なのでちょいと紹介してみようと思う。
 ところで、話を始める前に、読者諸氏には唐宋八家や説といったものが左程には身近でないかもしれないので、簡単に説明しておきたい。唐宋八家は、明の時代には既に認められていた唐宋時代の代表的な古文家のことで、唐の韓愈と柳宗元、宋の欧陽修、王安石、曾鞏、蘇洵、蘇軾、蘇轍の八人である。また、「説」というのは現代人が言うような堅苦しい「学説」のようなものではなく、漢文の散文の一形式で、出来事や道理などを分かり易く解釈して自分の意見を付け足したものである。

 前置きはここまでとして、先ずは、その全文を書き出してみよう;
「鹿畏?、?畏虎、虎畏羆。羆之状、被髪人立、絶有力而甚害人焉。楚之南有猟者、能吹竹為百獣之音。昔云持弓矢罌火而即之山、為鹿鳴以感其類、伺其至、発火而射之。?聞其鹿也、趨而至。其人恐、因為虎而駭之。?走而虎至、愈恐、則又為羆。虎亦亡去。羆聞而求其類、至則人也、?搏挽裂而食之。今夫不善内而恃外者、未有不為羆之食也。」
 訓読は以下のようなものでよいのだろうか。自信はないが、辱を忍んで読み下してみる;
「鹿ハ?(チュー)ヲ畏レ、?ハ虎ヲ畏レ、虎ハ羆ヲ畏ル。羆ノ状(スガタ)、被髪(ヒハツ)ニシテ人ノゴトク立ツ。絶エテナキガゴトク力アリテ甚ダ人ヲ害ス。楚ノ南ニ猟者アリ、ヨク竹ヲ吹キテ百獣ノ音ヲ為(マ)ネル。昔(セキ)ココニ弓矢罌火(オウカ)ヲ持チテ山ニユキ、鹿鳴ヲ為ネモッテソノ類(タグヒ)ヲ感ゼシメ、伺ウニソレ至リ、火ヲ発シテコレヲ射ル。?ソノ鹿ヲ聞クヤ趨(ワシ)リ至ル。ソノ人恐レ、虎ヲ為ネルニヨリテコレヲ駭(オドロ)カサントス。?ユクモ虎至ル、イヨイヨ恐ル。スナハチ又羆ヲ為ネル。虎マタニゲユク。羆聞キテソノ類ヲ求ムルモ、至レバスナハチ人ナリ。?搏挽裂(ソツハクバンレツ)シテコレヲ食フ。今ソレ不善ヲ内ニシ外ニ恃(タノ)ム者、未ダ羆ノ食(シ)ニ為ラザルハ有ラズナリ。」
 読み下し文でも分かり難いので、現代文に直してみる。多分、以下のようになると思う・・・(最近になってやっと本気で漢文を勉強し始めた私のこととて、解釈に間違いがあるかもしれないから、「と思う」と言っておく。);
「シカはチューを畏れ、チューはトラを畏れ、トラはヒグマを畏れる。そんな最強のヒグマの有様といったら、野蛮人のザンバラ髪のような頭で、まるで人のように立ち上がる。その力の強いことは凄まじく、人をコテンパンに傷つけ殺す。さて、楚の南に猟師がいたのだが、これが竹筒を吹き鳴らしてどんな動物の鳴き声でも上手に真似ることができた。この猟師、夜になって弓矢と火種をいれた甕を持って山へ入って行き、シカの鳴き真似をしてその注意を引いて集めようとした。物陰に隠れて見ているとシカがやって来た。灯りで照らしてシカを弓矢で射た。ところが、チューもその猟師のシカの鳴き真似を聞いていて、急ぎ足でやって来たのだ。猟師は恐ろしく思って、トラの鳴き声を真似てチューを脅かそうとした。チューは逃げ去ったが今度はトラがやって来てしまった。猟師は益々怖くなって、またもや、今度は、ヒグマの声を真似た。トラもチューのときと同様に逃げ去ったが、その鳴き真似をヒグマが聞いて、仲間がいると思ってやって来た。だが、辿り着いてみるとそれは人間だったので、引っ掴むや引き裂いて食ってしまった。自分自身を高めることをしないで何か他のものを頼みにするような者がいたとして、そんな連中がヒグマの餌食にならなくて済んだなんてことは未だに有りはしないのだ。」
 因みに、字書によれば、?(チュー)というのは虎に似た猛獣で、その昔は戦争にも使ったそうだ。写真は勿論のこと絵も手元にないので、どんな動物なのか見当もつかないが、とにかく獰猛だが虎よりは弱い猛獣なのだと思っておけばいいだろう。

 さて、このヒグマに喰われてしまった楚の猟師、猟師なら猟師らしく、どんな猛獣が現れたって、それすらも自分の獲物にしまうだけの覚悟を持っていなければならなかったのではあるまいか。竹筒を吹き鳴らして動物を誘き寄せること自体は、猟師の知恵の一つとして、非難されることではない。問題はシカなら相手にできるが、猛獣からはただひたすら逃げようとする姿勢だ。猟師が獲物を求めて大自然の中に踏み込んだからには、大自然の掟に従わなければならない事ぐらいは弁えていなければならない。チューだってトラだってヒグマだって彼を避けて通ってはくれない。だからこそ、自然を熟知し、技術を磨き、膂力、胆力を鍛え、自然界のあらゆる物と戦う準備を怠ってはいけないのだ。小賢しくも動物の鳴き真似が上手であることのみを頼りにするなど、猟師の本分に悖るというものだ。あまつさえ、猛獣に対抗するに、更に強い猛獣の鳴き真似で追い払おうというのだ。「小賢しい」の上に、更に、「姑息で卑怯」という悪態が積み重ねられてしまう。
 私はこのような生き様は、柳宗元と同様に、嫌いだ。しかし、このところの世相を見るに、この猟師のようなボンクラは勿論、ちょいとこれとは種類の異なるボンクラまで、ありとあらゆるボンクラが大衆の支持を受けているように思える。世相の趨勢といえばそれまでだが、自分がこんな世相に包まれていることは悪夢のようだとしか思えない。最近の選挙でも、「刺客」だの「マドンナ」などという内実とは無縁で人の気を引くだけの言葉に浮かされて、どんな人間だか知ろうともしないで投票するなんてことがあった。幸いにして落選したが、その選挙のときには既に、マネーゲームで違法行為を犯していた超ボンクラ人間がいたらしいではないか。その人物を選挙に駆り出した大物政治家たちは、それこそボンクラの大親分だと言わなければならない。
 兎に角、最近の“Japanese”という国籍を有するヒトは、意味もなく騒げる対象を見つけ出しては、それを目掛けて雪崩をうって突進するらしいのだ。私が「薄笑いの君」と呼ぶ隣国のアクターに群がるオバチャン連中の心の内は、どんな角度から分析しても、私の理解を超えている。何処を突いても“軽薄”という文字が飛び出してくる世相を理解できる方がそもそもおかしいのだと、片を竦めて拗ねるしか手はなさそうだ。
 こんな奇妙な昨今の風潮は日本に限ったことではないのだろう。世界中が奇妙奇天烈に捻くれているに違いない。そんな中にあっても、去年の末ごろ耳にした話はとりわけ奇妙なものであった。どこの国だか忘れたが、とにかくそれなりの国の政府の責任者の発言のことである。その御仁、見ようによってはタテガミを誇示する雄ライオンのようにも見えるが、よくよく見ると、子供向けの寓話に出てくる子狡い狐のような容貌でもある。そのように見えてしまうと、立派そうなタテガミも「羆説」にも出てきた唯の“被髪”(野蛮人のザンバラ髪)のように見えてくる。まぁ、そんな御仁である。 彼の国は、今、近隣諸国との間に難しい国際問題を抱えている。主には経済上の問題なのだが、それが領土問題にも絡み、また、戦争を平気でしていた頃の出来事にまつわる感情的なシコリまでもが混ぜこぜになった実にややこしい問題を抱えているのである。一国の責任者なら、どんな問題にも真正面から取り組まなければならないことは明らかだが、この御仁の反応は実に奇妙であった。いや、奇妙と言うよりは、「羆説」の楚の猟師の生まれ変わりではないかと思えるほどに小賢しくもあり姑息で卑怯でもあると言わなければならない態度であった。
 その御仁によれば、何よりも大切なのは世界を守るスーパーヒーローたるとある超大国との緊密な関係であるというのである。近隣諸国との問題など、その超大国と仲良くしていれば自ずと片付く些細な事柄なのだそうだ。だが、どこの国の話であろうが、そんな考えには誰しも首を傾げるであろう。外交関係の基礎を自国自身に求めない国などありはしないからである。もし、あるとすれば、それは別の強国の属国、即ち非独立国だけである。彼の国は独立国なのだから、近隣諸国との関係を自国自身の問題として真正面から捉えなければならない。そんな意思をかけらほどにも示さず、超大国に追従している限りどこの国であれ自国に手出しはできないとする者は、独立国の為政者として失格だと言わざるを得ない。どんな大国であろうが、自国に関係ない他国の領土問題に踏み込める訳が無い。況してや、自国の国益に関係ない問題になど関心すら示しはしない筈だ。
 相手国にしても、彼の国がその超大国と蜜月関係にあったとしても、ただそれだけのことでその超大国を憚って自国の国際問題を有耶無耶にすることなどありはしない。その超大国が問題の当事者でない限り、超大国には笑顔を向けつつ、問題を抱える国への厳しい態度を変えることはないのである。それに、世界を守るスーパーヒーローというのは、裏を返せば、世界を牛耳り身勝手な秩序を押し付けてくる厄介者だということにもなる。そんな国を快く思わない国は多い。機会があればトップの座から引き摺り降ろそうと虎視眈々と狙っている国さえある。ライオン風キツネ顔の君の国に問題を突き付けている国の一つは、明らかに、天下を狙っている眠れる獅子である。嘗てその国は、ライオン風キツネ顔の君の友たる超大国を「張子の虎」と呼び、自らが百獣の王たらんことを期していた。今もその態度に変わりは無い。

 楚の猟師は、強いものの影に身を寄せていれば安全だと信じていた。草食動物のシカになら矢を射掛けるが、猛獣であるチュウーにはトラの吠え声でしか対応できなかったのである。その結果、その声を聞きつけたトラを呼び寄せることになっても未だ懲りず、そのトラを追い払うために、ヒグマの吠え声を真似たのだった。多分、トラの鳴き真似がチューを追い払い、ヒグマの鳴き真似がトラを追い払ったという自分にとって都合のよい一面のみを見ていたのだろう。だが、こんな態度をマイナス面は見ないプラス志向だと褒める者はあるまい。大幅に譲ってそれをプラス志向だと認めたとしても、結果的には、ヒグマの餌になるだけの唯のお馬鹿に過ぎないからだ。しかも、猛獣の吠え声を生み出した竹筒自体には猛獣の爪の垢ほどの力もないのである。強いものの幻影に己の命を託す者には馬鹿者以上の呼び名は無い。
 自分一人の命なら、鰯の頭であろうが新興宗教の教祖様であろうが、どんな幻影に任せても「自己責任」の一語で許されるのかもしれない。だが、一国の宰相たるものは一国及びそこに暮らす全国民の命にまで責任を持たねばならぬ。竹筒一本ならぬ「張子の虎」の影に自国の命運を掛けてはならない。ここで敢えて超大国を「張子の虎」と呼んだのは、国内政治の舞台であれ国際政治の舞台であれ、そこに君臨する大物はいつ失脚するか分かったものではないからだ。かの項羽は劉邦の命を掌の上で弄ぶ勢いであったが、最後は、唯一騎で国境を越えることを恥じて自ら死地に赴いた。錦の御旗に「世界秩序擁護」を縫い取った憲兵国家たる超大国もいつどのようになるかは誰にも分からない。
 尤も、その超大国がどうにかなる前に、正しく「羆説」の筋書き通りに、超大国自体によってかのライオン風キツネ顔の君の国は食い荒らされてしまうかもしれない。「仲間のヒグマかと思ったら、なんだ、唯のヒトじゃぁないか」と引っ掴まれ引き裂かれて喰われてしまってからでは遅過ぎる。今のうちに、全ての国と自分自身の裁量で節度ある関係を保つようにしなければなるまい。誰の力も頼らず、先ずは己の力を磨くことに力を傾注することだ。ライオン風キツネ顔の君の国のことはその国の国民が考えるべきことである。私は、ただただ祈る。私自身がライオン風キツネ顔の君の国の国民のように不幸にならぬことを、ただただ祈るのみである。

(2006年1月27日)


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「日」を冠した漢字

 先日、テレビジョンのニュース番組で、中国人だったか韓国人だったか忘れたが、兎に角どちらかの国の政府関係者の名前が画面の片隅に出て来た。その名前の中に“昊”という文字が含まれていたのだが、それが気になってしょうがなくなってしまった。 意味については、淡い記憶ながら“夏空”を表すのではなかったかと思ったのが、読みがさっぱり思い出せなかったのだ。字引を引っ張り出して調べたところが、“コウ”とか“ゴウ”と読むことが分かった。“天”の読みは“テン”であって、“コウ”とも“ゴウ”とも読まない。ということは、“昊”は会意字であって形声字ではないということらしい。そんな取り留めの無いことを考えていると、妙なもので、好奇心がやけに刺激されて、つい頭に“日”が付く文字を調べてみようと思いついてしまった。ということで、その調査結果の一部を以下に紹介しようと思う。取り留めなくズラズラ書き連ねるので退屈かもしれないがご容赦願いたい。

<旦、タン> “元旦”という言葉が馴染み深いことから、“あした(朝)”を意味することを知る人は多いだろう。だが、“日”の下の“一”が地平線を表すなんてことにはなかなか想いが及ばない。実に単純な会意字だ。古代人の感性に脱帽する。

<旱、カン、ガン> “ひでり”とか“乾く”という意味を表す形声字だが、会意形声字だと考えている人が多いのではないかと思う。確かに“干”という文字は“乾かす”という意味でも用いるので会意字のようにも思えるが、“干”に“乾かす”という意味が付加されたのは“乾”との音の一致による仮借による。本来、“干”という文字は武器として用いる棒を象ったものだから、間違いなく、“ひでり”を表す“旱”は形声字に分類すべきなのである。

<昊、コウ、ゴウ> 冒頭で紹介したが、天高く太陽が昇った様を表す会意字である。そんな太陽の様子は季節的には夏に特有なので、“なつぞら”を表す。「太陽が天にあるのは夏に限らない」なんて屁理屈を捏ねる御仁は、情緒を解さない朴念仁だと非難されることになる。

<昂、コウ、ゴウ> “あがる”、“あおぐ”、“たかい”といった意味がある会意形声字。“日”の下の部分は“立った人と跪いた人”を表しており、“仰”の原字である。即ち、“昂”というのは、太陽を仰ぎ見ている状態を表しているのであって、そこから“あがる”、“あおぐ”、“たかい”といった意味が導き出されている。

<昆、コン> いわずと知れた“昆虫”の“昆”だが、意味としては、“あに”とか“むれ”あるいは“なかま”のことである。“日”と“比”の会意字だが、“比”は並ぶことを意味する。従って、“昆”は太陽の下に大勢がずらりと並んだ様子を表す文字で、そこから“むれ”とか“なかま”の意味が出ていることは理解し易い。しかし、何故“あに”を表すのかはすんなり理解できない。“仲間”→“兄弟”→“兄”という二段構えで意味が広がったようなのだが、現代人が大昔の中国人の感覚を辿るのはかなり難しい。

<昌、ショウ> “あきらか”あるいは“さかん”を表す。“日”が二つあるのではなく、上は“日(太陽)”だが下は“曰(言う)”である。“曰(言う)”の形は“口”に由来するから太陽とは全く縁がない。それはともかく、“昌”とは“太陽のように明るく物を言う”という意味の会意字なのである。

<昇、ショウ> 言うまでもなく“のぼる”ことだが、“升”は酒や穀物を量り取る容器のことだから訳が分からない。字引によると、“升”は穀物を掬い上げる様を象ったものなのだそうで、そこから“のぼる(上がる)”という意味が出たとのことである。従って、“昇”は会意形声字だということになるのである。

<昃、ソク、シキ、ショク> 太陽が西の空に“かたむく”ことを表す。“厂”は“がけ(崖)”でその中に“人”を書くと、崖っぷちに人が身を寄せている様となり、そこから“片寄る”という意味が引き出される。ということで、“昃”という文字は、中天にあった太陽が西の空に片寄ることを表す会意形声字なのである。

<旻、ビン、ミン> これも“日”と“文”の会意形声字で、“そら”特に“あきぞら”を表す。“文”には“文字”とか“飾る”とか“紋様”といった意味があるが、この場合は“細かい紋様”のことらしい。“細かい紋様”→“見え難い”→“日光がか細い”→“秋空”というロジックらしいのだが、なんとも回りくどいことである。つい「本当かなぁ」と呟いてしまう。

<星、ショウ、セイ> 意味について説明は不要だが、文字の成り立ちについては些か議論を要する。この場合の“日”は太陽ではなく、同じ天体であっても後に出てくる“晶(澄みきった星の光)”と同じく星を表すらしい。“生”は“生え出たばかりの瑞々しい芽”を表すから、“星”というのはこの両者の会意形声字で、“瑞々しく清らかに光る天体”を表す。太陽も星も天空にあるもので、“日”はいずれのシンボルともなり得る。その両者を区別する工夫の結果として作られた文字らしい。それにしても、古代中国人がほんのちょっと異なった発想を得ていたら、全く別の文字が“ほし”のために作られていたかもしれないと考えるとなんだか妙な気分になってしまう。そんな屁理屈は全ての漢字について言えることだが、“星”については特に強くそのように思えるのだ。

<昴、ボウ、ミョウ> “すばる”のことだが、若い人たちには、中国の二十八星宿よりもギリシャ神話の方が馴染み深いだろうから、“プレアデス星団”と言った方が通じやすいかもしれない。そんなことはどうでもいいが、固有名詞とも言える名称なので、何故“卯”という部品が使われたのかは不明というほかない。兎に角、“卯”の読みは“ボウ”だから、“昴”が形声字であることに間違いはないのだが・・・

<昜、ヨウ> この文字は“あがる”という意味の会意字だが、三つの要素に分けることができるそうだ。“日”と“T”と“「杉」の右側の旁の部分の斜めの三本線(彡)”なのだが、重要なのは“日”と“T”である。“日”は勿論のこと太陽を表し、“T”は上に上がって高いところに達することを表すマークで、この両者の会意で、“(勢いよく)あがる”という意味をなしている。“「杉」の右側の部分(彡)”は後に付加された“紋様(飾り)”だと言われており、文字の意味には関与していないらしい。

<晏、アン、エン> “くれる”、“おそい”あるいは“やすらか”という意味の会意形声字。“安”は形としては女を宥めて家の中に落ち着かせることなのだそうだが、広くは“上から下へと押し下げて落ち着ける”ということを表す。従って、日が暮れることや夜の晩い時刻を表すと同時に落ち着いて安らかなことをも言う。

<晃、コウ、オウ> 分かり易い会意形成字で、“光が四方に輝くこと”を意味する。“光”は“人”が“火”を掲げている形だから、それに“日(太陽)”を合わせれば、明るさとしてはこれ以上のものはない。文明に毒された現代人は「もっと明るいものはある」と言うだろうが、古代人の素直な感覚に学ぶべきだろう。

<晁、チョウ、ジョウ> これまた分かり易い会意形成字で、単純に“あさ(朝)”を表す。“兆”は左右二つに開くことだから、“晁”は太陽が夜の帳を押し開くことを表す。すなわち、“朝”のことなのである。

<晨、シン、ジン> 上の“晁”と同じく会意形声字で、意味も全く同じ“あさ(朝)”のことだが、組み立て方の発想が些か異なる。“辰”は二枚貝が脚(舌という人もいる)を出してペラペラと振るわせている形で、蜃気楼の“蜃”は蛤の原字である。従って、“日”と“辰”の組み合わせは、太陽があたかも貝が脚をペラペラさせるように生気を奮い立たせながら昇っていく様を表す。即ち、“朝”のことなのである。

<晟、セイ、ジョウ> “あきらか”とか“明るく立派”を表す会意形声字。“成”は言うまでもなく“立派にまとまっていること”を言うから、“晟”は太陽のように明るく整っていることになるのである。

<景、ケイ、キョウ、エイ、ヨウ> これは形声字で“ひかり”、“ひかげ”あるいは“かげ”を表す。“京”は音を表すだけで意味は関係ないということだ。因みに“京”は高い丘に建った楼閣の形で、古代の邑落を表し、転じて“みやこ”の意となった。ところで、“京”の上古音はローマ字風に表記すると“kiang”と推定されているが、“境”もまた同音である。このことから、“景”の字は、“境”の意味を表す音を“京”の字に借りたものだと考えられている。即ち、“景”は“(日の)光の境目”を表す文字なのである。従って、“光”と“影”を意味し、更には様々な光の境目が複雑に入り組んで作り出す“像”のことをも表すようになったということらしい。

<暑、ショ> “あつい”ことを表す会意形声字だが、“者”が何を意味するのか知っている人は多くないだろう。この文字はコンロで柴を炊いている形であって、従って、“煮”の原字なのである。それが分かれば、“暑”の意味するところはストレートに伝わってくる。兎に角、中華鍋を操ると大汗をかいてしまうのだ。

<晶、ショウ、セイ> “星”のところで既に出てきた通り、これは星三つの集まりの形であり、“澄み切って明るい光”を表している。それで、“あきらか”という意味になっているのだが、ポイントは何といっても“日”が太陽ではなく星を表している点である。太陽が三つだと眩しいだけでなく、暑苦しい。とても、“澄み切った”などといった落ち着いた意味合いにはならない。くどいようだが、“日”は太陽だけでなく星の象形でもあるのだ。やや紛らわしいが、古代人にはすんなり受け入れられたようである。

<暈、ウン> この字を単独で見てもピンとはこないが、“日暈(ニチウン)”と出てくると何となく分かる。太陽や月の回りに時として見える光の環、即ちhaloのことである。ということで、この“暈”というのは、“ひがさ”のことである。また、“軍”の原義に“環”という要素が含まれていることから、目がグルグル回る“めまい”を意味するようになり、日本では更に、光の環の明度が周辺に向って徐々に落ちていることから“ぼかし”を表すようにもなった。ところで、当たり前のように“軍”の原義に“環”という概念があると言い切ったが、その説明をしなければなるまい。“軍”とは周りに車(戦車など)を障壁として円く並べて作った営舎のことなのである。そこから“環”が導き出される。ということで、“暈”は“日”と“軍”の会意形声字となる。

<暴、バク、ボウ> 現代人は先ず“暴力”の“暴”とイメージするが、元々は“さらす(曝す)”の意であり、“手荒い”という意味は後に付け加えられたものである。典型的な会意字で、“日”の下の部分は本来、動物の骨(あるいは体)を両手で支え上げている形なのである。その部分が文字として完成する過程で“出”+“米”の形になってしまったものとされている。動物のあばら骨を米にしてしまうなんて、とんでもない間違えではなかろうか。

<曇、ドン、タン> “日”と“雲”の会意字という説明が全てを語っている。それ以上の説明は不要だが、これだけだと寂しいので、周辺部分の説明を若干付け加えておこうと思う。“曇”=“日”+“雨”+“云”だが、“雨”が天から水滴が落ちる様であることは見れば分かる。“云”は指示字なので一目で理解はできないが、気体(蒸気を含む)がモヤモヤと立ち昇ることを意味している。従って、口ごもって声を出すこと、即ち、“言う”ことを表わしているし、“云”はまた水蒸気の成れの果てたる“雲”の原字でもある。

<曩、ドウ、ノウ> “日”と“襄(ジョウ、ショウ、ソウ)”の会意形声字だと言われてもピンと来ない。漢文では“曩者”を“以前に”という意味で“さきに(先に)”と読ませることは知っていたが、そもそも“襄”の字の意味が分からないからである。字引によると、“襄”というのは“中に割り込む”ことを表すのだそうだ。それで、“日”+“襄”で、間に何日もの日数が割り込んだという意味になるという。「へぇー」としか言い様はないが、確かに、“襄”を使った文字には物を容れる“ふくろ”という字もあるし、他人を割り込ませる“ゆず(譲)る”という字もある。「へぇー」ではなく、「なるほど」と言わなければ学者に対して失礼かもしれない。

 さて、まだまだ多くの文字があるが、キリがないのでここで止める。ただ、文字形としては“日”(あるいは“星”)を冠したように見えるが、実際の意味はそうではない文字も多くあることだけを、以下の例をもって、付け加えておきたい。

<早、ソウ、サッ> 言わずと知れた“はやい”という文字だ。“朝早い”ことを言うようで“日”に関係しているようだが、全く“日”には関係ないとされている。この文字はクヌギやハンノキの種実を象ったものだという。これらの木の実の皮を黒色の染料として用いており、その黒色から夜明け前の闇が想像され時間的に早いことを現すようになったのだそうだ。古くは“早”の上に点を打った文字があったことからも、“早”の“日”が太陽ではないことをうかがい知ることができる。因みに、万葉集にも染料として“橡(つるはみ)”というのが出てくるが、これこそ当に“早”の主(ぬし)たるクヌギやトチノキのことである。

<易、イ、エキ> これはトカゲあるいはヤモリの形に“「杉」の旁の斜めの三本線(彡)”を飾りに付け足したものだそうで、“蜴(トカゲ)”の原字だという。平らにへばりついた生き物が素早く動き回ることから“かわる(物事が変遷する)”という意味になったのだろうか? 詳しいことは手持ちの字引には出ていなかった。因みに、“蝪”は別字で“地蜘蛛のことらしい。

<是、ゼ、シ> 真っ直ぐなさじ(匙)に“止(足)”を足した会意字。真っ直ぐに進むことを意味しており、そこから“正しい”を表すようになった。後に“之(これ)”と同義になったが、それはこの文字の推定上古音が“dhieg”で“之(tieg)”に酷似していたためらしい。

<曷、カツ、ガチ> “?(カイ)”というのは人を押し止めることをしめした形で、それに“曰(言う)”を加えて叫んで人を押し止める意味を強調したものだという。“曰”は“昌”の項で触れたように“口”から発展したもので太陽とは全く関係ない。なお、漢文で“なんぞ”とか“いずくんぞ”と読ませるように“曷”に“なに(何)”の意味があるのは音の類似によるとされている。“曷”の上古音は“hat”で“何”は“har”だそうだが、確かに似ているには似ている。この音の話で更に話は広がるが、“喝”は既に“口”の要素を含む“曷”に重ねて“口”を付け加えたものだが、“気合声”あるいはそれを発することを表す。漫画の描写で“キェーッ”などと表現される気勢音のことで、“曷”はその擬音字とも言える。“喝”が余分に“口”をくっつけられて作られたのは、“曷”が本来の意味から離れていったことにより新たにその原意を示す文字が必要になったためである。

<量、リョウ> 上の“日”は太陽のマークと同じ“○の中に点”だが、この場合は穀物の粒のシンボルだとされている。下の“里”は“重”で、二つ合わせて、穀物を天秤で計量することを表すのだそうだ。

<冒>、<曼>、<最> 細かいことは全て省くが、これらの“日”は“=”で表した“物”に“冂(ふた)”をかぶせた形を示しており、太陽とは完全に無縁だという。

 いやはや、己の物好きで始めた話だが、漢字とは面倒なものだと思わず溜息をついてしまう。特に、歴史的な背景は無視して形だけを整えるために字体が整理され続けてきた昨今では、漢字の元の意味を知ることは極めて難しいことを承知しなければならない。ここに紹介した漢字の成り立ちも多くの学者がそう言っているだけで、必ずしも正しいとは言い切れない。現実に通説に対して異論を唱えている学者もいるし、そんな反主流派の学者の説によると、後漢時代に許慎という人がまとめた「設文解字」という史上初の字書にすら怪しげな漢字解釈があるとのことである。もし紀元100年頃に既に個々の漢字の成り立ちがあやふやになっていたとすれば、それから1900年も経った現在では何をか言わんやである。
 「設文解字」が書かれた当時、甲骨文や金文は未だ発見されていなかった。従って、現在の通説は「設文解字」にある古代人のあやふやな伝承のみならず、科学的な古代文字の分析によっても裏打ちされていると言ってよい。だが、「設文解字」は、最古の文字解釈書であるがために、未だに現在の主流派文字学者の聖典たるものである。従って、これの否定は現在流布している通説の根底を揺るがせることになる。「設文解字」の文字解釈に怪しげな部分があるかどうかは重大な関心事なのである。
 これについて考えるには、秦の始皇帝にまつわる伝承が参考になると思う。始皇帝(あるいは、その宰相であった李斯)が文字を統一したという話である。我々が小篆と呼ぶ字体がそれに当たる。この事績は文化進歩の上で未来を見通した大功績だとする評価がある一方で、苛烈な法治主義や焚書坑儒に走った暴君の自己顕示欲の表れだとする酷評もある。しかし、私はその何れをも一つの側面にしか過ぎないと考える。誰が主体であれ、文字を統一しようとする背景には文字の不統一による不便があったと考えるのが自然だろう。主たる動機はそこにこそある筈だ。
 夏・殷・周と続いた古代中国王国時代の遅くとも殷・周時代には既に文字が機能していた。そのような文字創成期には、未だ象形文字の域を脱せず、従って、却って、字体が多少異なっていても意味が通じたようだ。しかし、周が衰え春秋戦国時代になって諸侯が割拠し始めると、文字は各国で独自に進化し始めたらしい。それが事実であることは考古学的資料から明らかだ。しかも、進化の主たる方向は簡素化であった。大胆な簡素化は象形文字の写実性を損ない、写実性の喪失は文字要素がその意味を表現する能力を殺いでしまう。従って、最終的には地域的に独自に進化した文字は相互に意味不明となってしまったことであろう。戦国時代末期に周が滅び、始皇帝が統一国家を樹立するに及んだ頃に、各国の文字が既に完全に地域を越えた意思疎通に耐えなくなっていたとまでは言わない。各国が盛んに外交文書を遣り取りしていたことに間違いないからである。だが、かなりの混乱状態を呈していたであろうと考えられる。
 話を分かり易くするために、単純な例を引いてみたい。“島”という文字は海の中に頭を出した“山”に海鳥(または渡り鳥)が泊っている形だが、一般的な“島”という字体だけでなく“嶋”という字体や“嶌”という字体がある。確かに、この程度の差異なら大きな混乱は起こらない。“山”という部品も“鳥”という部品も共通しているからである。それでも、時折、人名などで字体を取り違えると、「失礼な」とむくれる御仁を宥めなければならない事態が起こることもある。増してや、もしも“山”や“鳥”といった部品が都道府県によって全く異なった姿をしていたらどうだろう。手紙を遣り取りしても充分な意思疎通を図れないといった事態に陥るであろうことは想像に難くない。逆の事態も起こり得る。本文で取り上げた“日”の場合、“太陽”、“口”、“穀粒、“覆いを被せた物体”、“トカゲの一部”と様々な形を表している。同じような形をしていながら全く異なる概念を表す文字部品が野放図に使われたとしたら・・・。その結果は考えるまでもあきらかであろう。
 秦の始皇帝は、度量衡の統一だけでなく文字の統一も果たさなければ、統一国家の運営ができなかったに違いない。経済の基盤だけでなく、それより以前の文化基盤に問題があったということだ。穿った考え方をすれば、焚書の原因も乱れた文字にあったのかもしれない。史書によれば、焚書は思想の乱れを嫌った結果だとされているが、実際には“思想”以前に“文字”の一人歩きがあったのだろう。小篆は当時としては最も複雑な字体であった。複雑だということはより古いということを意味している。始皇帝は乱れた文字に対処するために時代を一旦過去へと引き戻したことになる。

 さて、ド素人の私の推論などどうでもいいが、始皇帝ほどの権力者ではなくとも、現在に生きる私たちには3000年の歴史を持つ漢字を好き勝手に弄繰り回すことなど許されない。中華人民共和国において、字体を無視し音を主体とした簡体字が創始されたことにはそれなりの根拠があった。従って、簡体字の汎用という状況のみを見て、その中国で繁体字が衰退したと考えてはならない。中国において漢字の歴史は途絶えていないのである。然るに、日本においては。既に日本文字と化した漢字をやたら細かく整形し読みや用法に無意味な制限を加えている。明治維新以来、日本の文盲率は急激に低下しており、漢字学習が全教育上の大きな阻害要因にはなり得ない筈だ。“ゆとり教育”の馬鹿馬鹿しさは最早論じるまでもない。子供たちの総合的学力低下の主たる原因は国語力の低下にある。
 私は単純に小難しい漢字を何でも彼でも覚えろと言っているのではない。日本語の場合、2000か3000の漢字を知っていれば充分だと思っている。問題はそれを充分に理解し自在に使えることにあるし、必要なら難しい漢字でも使いこなせる基礎学力が重要なのだ。人間が活字のような文字を書く必要はない。誤読を生じなければ漢字の細部などどうでもいいだろう。学校のテストで、「あそこがはみ出しているから×、ここがはねてないから×」などと目くじら立てる必要が何処にあるのだろう。とにかく、文化の根底にある文字は大切にしなければならないが、今の教育行政にはその姿勢が認められない。いや、それは余りの酷評かもしれない。大切にする対象を根本的に間違えていると言うべきなのだろう。

 たまには字引を捻くり回すのもいいものだ。自分には最早無縁となった学校教育のことに考えが至ることだけでもいいことだと思う。国民が挙って教育問題に関心を持たなければ、子供たちが為政者のために駄目にされてしまうからだ。気が向いたら、別の一群の漢字について調べてみようと持っている。

(2005年11月20日)


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六十の手習い

 8月の下旬に少しばかり無理をして背中の筋と筋肉を傷めてしまった。そのために、文章を書くどころか読書するのも辛いという不幸に長期間陥っていた次第である。ほぼ一月半経って、ようやく痛みが軽くなった。それでこの文章を書き始めたのだが、まだ本調子ではない。キーボードを叩いていると肩が重く張ってくるような感じがする。ところで、何故そのような破目に陥ったかというと、これがまた情けない話で、もはや私に肉体労働は無理なのに、それに気付かず若い人の力仕事を手伝って、「年寄りの冷水」の典型例を自ら作ってしまったということなのである。
 遠い記憶だが、「年寄りの冷水」の“冷水”というのは昔の江戸の大川の水のことだと聞いたことがある。江戸の井戸水は塩分が多かったそうで、そのため、神田上水や玉川上水といった上水施設が作られた。とは言え、それで全てが賄えた訳ではなかったようで、大川の水を汲んで飲料水として売っていたらしい。たとえ澄んだ冷水でも、町中を流れる川の水だから決して衛生的ではない。湯冷ましにすれば問題はないが、抵抗力が落ちた年寄りが大川の水を生で飲んだのでは、腹を下してもちっともおかしくはない。実際にそういう事例が多かったようで、年寄りが強がって生水を飲んで痛い目を見ることを「年寄りの冷水」と言うようになったというのである。
 私の記憶内容の真偽はともかくとして、「年寄りの冷水」のように年寄りに因んだ慣用句や諺が幾つかある。私が経験した思いもよらぬ筋違いや筋肉痛のように、そんな諺の実例を自分自身の行動の中に発見してしまうと、否が応でも自分が齢をとってしまったことを実感してしまう。「年寄りの冷水」とともに最近ことに実感しているのは「六十の手習い」という言い回しである。単純に晩学の喩えとしても使われるが、若い頃ならどんな新しいことにでもついて行くことができるが高齢者にはそれが難しいということで、年寄りが照れを隠したり謙遜したりするときに好んで使われる表現だ。だが、私の場合は些か異なる。「六十の手習い」でも若い人たちには負けない、いや、それどころか、勝った面もあると年寄りの利点を実感しているのだ。
 「六十の手習い」は私の若い頃からの計画であった。だから、私にとっての「六十の手習い」は、基本的には特別な意味を持たない極普通のヒトの行動に過ぎないのである。子供の頃から私の好奇心は無秩序にあっちこっちへと広がっていた。それら全ての対象に同時に手をつけるのは不可能だった。ヒトがその歴史で蓄積してきたことは余りに膨大で、たった一人の人間の手に負える程度ではない。その位の事は浅はかな私にも理解できており、全ては無理でも、それらの中のできるだけ多くの対象について順次学んでいこうと思ったのだった。そうなると、誰が考えても同じ結論に達すると思うが、死ぬまで何か新しいことに手を出し続けなければならないということになるのだ。従って、もし私が百歳まで生きたとすると、また、そのときにも脳細胞が普通に活動を続けていたと仮定すると、私は「六十の」どころか「百の手習い」をやっていることになる。ずっとそんな風に考えてきた私には「六十の手習い」など特別なことではないということなのである。
 こんなことを言うと、私が物凄い勉強家であるかのように聞こえるかもしれないが、それ程でもないと明言しておかなければならない。何故なら、私の興味の対象は学問や芸術だけに止まってはいないからだ。所謂“遊び”も多く含まれているから、文字通り“遊び半分”であることも多いのである。それに、どうやら、人が言うところの“勉強”と私が理解するところの“勉強”とは微妙に食い違っているらしいのである。従って、私が世間で言われるところの“勉強家”に当て嵌まることはないといわなければならないのだ。
 子供の頃、母親は私に「勉強しろ」と盛んに言った。母親から見ると私は余程の勉強嫌いに思え、実際にちっとも勉強しない子供だと評価していたらしい。確かに、私は四六時中ボケッとしていた。だが、それこそが私なりには勉強の真っ最中だったのである。ラテン方陣のような古典的な方陣を頭の中に組み立てたり、独自の法則性を持った新しい方陣の案出に努めていたということだ。私にとって、“勉強”とは好奇心を満たすための活動であって、母親が言うところの学校の試験に備える訓練ではなかったということなのだ。
 一方、私の兄は母親の定義通りの勉強家であって、わざわざ試験を受けて中高一貫の有名私立校に進んだ。そんな“優秀な”兄を持つ私にも、当然の如くに私立中学を受験するよう圧力がかかった。だが、私は考えるまでもなくそれを拒絶した。電車に頼る長い通学時間や所謂“受験勉強”に割くような余った時間などなかったからだ。魔方陣を解くだけでも大層な時間を要するのに、それだけでなく、「どうすれば手作り弓矢の性能を向上させることができるか」などといった色んな問題を解決しなければならなかったのである。このように、真に不本意ながら、私は母親や学校の教師たちから“勉強嫌い”の烙印を捺されていた。だが、私の定義によれば大の勉強好きだったのである。その食い違いは未だに解消されていない。従って、私が世間で言われるところの“勉強家”に当て嵌まることはないのである。

 「六十の手習い」に話を戻すが、現在、私は漢文を手習いしている。手習いとは言ってもお師匠さんについて教わっている訳ではない。漢文の本を買い込んで手許の字引をめくりながら独学しているに過ぎない。私は大の先生嫌いだから、余程のことでもない限り先生にはつかない。それに、漢文に手をつけた理由は漢文そのものではなかったからでもある。速い話が、別の“手習い”をより深く修めるために始めたのである。その別の“手習い”というのは日本の古代史である。日本の古代史にのめり込むと、嫌でも漢文を読まなければならない。漢文が得意であろうが不得手であろうが、兎に角、漢文というものを読まなければ始まらないのだ。例えば、馬鹿の一つ覚えのように私が盛んに取り上げる「魏志」倭人伝だが、学者の現代語訳を読んでおけば事足りるというほど甘いものではない。学者によって解釈がマチマチで、納得できる解釈を見出すには自ら原文に当たるしか方法はないのである。
 とは言え、若い頃には主として生物学を勉強してきた漢文に関してはド素人の私が、すらすら漢籍を読めるはずはない。乏しい漢文の知識をベースにしているため、足りない部分は分厚い字引に頼るしかない。従って、気が遠くなるほどの時間をかけなければならないのである。最近、老い先短い私がこんな時間の使い方をしていてはいけないと思うようになった。資料を読むことだけに時間を費やしていたのでは、最も肝心なその先の考察に至る前にあの世行きになってしまいそうなのである。「急がば回れ」で漢文を勉強し直した方が良いと考えるに至り、急遽、漢文が「六十の手習い」の対象にされた次第である。
 その漢文の学習の中で感じたのだが、「六十の手習い」は必ずしも若い人たちの勉学に劣るということはないようだ。漢文は高校で習っただけだが、その当時のことを思い出してみると、漢字についての知識を蓄積したり詩文を鑑賞したりはしたが、漢文というもの自体について考えることは全くなく、従って、漢文というものを理解することはできなかったと白状せざるを得ない。というよりは、考えるだけの下地がなかったと言うべきなのだろう。だが、今では、そんな昔のことが嘘のように、ある程度の理解が簡単に得られるのだ。若い人たちよりは学習スピードも断然速いと自負している。
 昔との最も大きな違いは、漢文を視覚的にだけでなく音韻的にも理解できることであろう。漢文訓読とは古代から左程に変化することなく綿々と伝えられた中国の文語を、日本語として読み下し理解する術である。そういった意味では、漢文も日本語の一つの形態に過ぎない。漢字の中国音を知らなくても一向に不都合はないのだ。だが、日本古代史にのめりこんでしまった者は自ずと漢字の古代中国音にも目が向いてしまう。上代日本語を記すのに使われた万葉仮名を正しく理解するためには当時の中国音を承知していることが重要だからである。この余計な観点を持って漢文を学ぶと、その昔にはただ丸暗記していたに過ぎない事柄を納得できるものとして整理できるということなのだ。
 例えば、“无(無)”も“莫”も“亡”も“罔”も“毋”(“母”ではないことに注意)も“匆”もみんな“なシ”とか“なカレ”と読み、意味も同じで存在の否定や禁止を表す。これらの漢字について調べてみると、様々な背景をもって成立した複数の文字から、たまたま同一の概念が導き出されたのだということが分かる。しかも、もう一つ面白いことがあり、これらの音は互いに近似しているのである。音声記号が書けないのでローマ字表記風に書くが、中国語上古音は“无(無):miuag”、“莫:mak”、“亡:miang”、“罔:miang”、“毋:miuag”、“匆:miuet”だったと推定されている。基礎に“miuag”という音があって、それが同じ概念を持つ複数の文字に少しずつ変化させながら当て嵌められていったことが容易に推察できる。言語は文字が発明される前にある程度完成されていたことを改めて感じることができる。
 “盍〜”は“なんゾ〜ザル”と読み、“何不〜”と同義だ。“何不〜”を“なんゾ〜ザル”と読むことには何の抵抗もないが、“盍”という文字は何処から見ても“蓋”を意味しているとしか見えないから、どうして“なんゾ〜ザル”という意味になるのか釈然としない。しかし、漢字の意味ではなく音で考えると、なるほどと思う。“何不”の推定上古音は“har piuet”であり、“盍”は“hap”なのである。“hap”は“har piuet”を約(つづ)めたものなのだということが分かる。漢文の世界では、日本語の音読みで“盍”は“コウ(カフ)”だから“何不(カフ)”と通用させたと理解するらしいが、それでは不充分だ。原語で考えると、音が同じなのではなく音が約まったものなのだと解釈すべきであることが分かり、同様の現象が現代中国語にも認められることから、これが中国語の発展形態の一つなのだという納得が得られるからである。
 同じような例として、“耳”や“爾”を「〜だけ」という意味の“のみ”と読ませることがある。“耳”にも“爾”にも本来的には“而已”と書き表し得る“のみ”という意味はない。上古音を調べてみると、やはり、これも発音に端を発した用字法の拡大例なのだということが分かる。“而已”は“nieg tieg”であり、“耳”は“nieg”で“爾”は“nier”だったと推定されているのである。この場合には、“而已:nieg tieg”の “已:tieg”の部分は完全に省略され、“而:nieg”と同じ発音である“耳”や非常に近似した“爾”が代用されたということが分かる。因みに、現代中国語では、“而”も “耳”も“爾”も、四声(トーン)は一致しないが、全て“er”(ピンイン表記)である。この例の場合は、日本語の音読みでも正しく理解できる。“而已”は“ジイ”と読め、“耳”も“爾”も漢音は“ジ”だからである。
 さて、高校の頃に“合字”というものを習った覚えがある。“諸”は“之於”あるいは“之乎”の合字であって“これ”と読み、“焉”は“於之”の合字で“これより”と読むというのである。これらについては中国上古音を度外視しては全く理解できない。“諸”は物が沢山集まったことを意味する文字で、“これ”という代名詞としての機能は後から付加されたものだ。その原因は“諸”の“tieg”という音にあるのである。“之於”は“tieg iag”で“之乎”は“tieg hag”だが、肝心なのは“之:tieg”で“諸”と全く同じ音だった。このことから“諸”に“これ”という意味が付加され、“之於”あるいは“之乎”の合字とみなされるようになったということらしい。
 “焉”はもっと奇妙な文字だ。そもそもは“エン”という燕に似た鳥を象形したものに過ぎず、“これより”という意味を持っていなかったことは勿論のこと、“いづくンゾ”という意味を表したり“忽然”の代わりに“忽焉”という風に使われるべき文字ではなかった。これら全ての用法の敷衍はその“ian”という音に原因があった。先ず、“焉”が“於之”の合字だということから片付けよう。“於之”は既に述べた“之於:tieg iag”の文字順がひっくり返ったものだから上古音は“iag tieg”ということになる。この“iag”が“焉:ian”と似ているというだけで“これより”という意味を表す“於之”と同じだとされたのである。また、“忽然”と同じ意味として“忽焉”という風に使われるようになったのも同じ理由だ。“焉:ian”という音が“然:nian”という音に通じるからに過ぎない。
 “焉”が“いづくンゾ”という意味を表すようになったのも、その“ian”という音が大いに関係していることは間違いない。ただ、漢文で“いづくンゾ”と読まれて「どうして〜ようか、〜ない」という反語を導く漢字があったのかどうか、また、あったとしてそれがどんな文字だったのかはっきりしないのだ。私が知らないだけなのかもしれないが、漢文の教科書を読んでもそれらしい漢字がみあたらない。私が知っている“いづくンゾ”と読ませる文字には“安”、“寧”“焉”、“悪”、“烏”の五つで、推定上古音は“安:an”、“寧:neng”、“焉ian”、“悪:ak”、“烏:ag”である。これらの五つ中に、本義として「どうして〜ようか、〜ない」という反語を率いる抽象的な漢字だと抵抗無く考えられるものは見当たらない。しかも、“寧:neng”が他の四つと音が近似しているとは言い難いので、全ての文字が単純に音の類似のみで同様の使われ方をするようになったとも考え難い。
  これは私の勝手な想像だが、古代中国人は「どうして〜ようか、〜ない」という反語を発語する漢字を特には作らなかったのではないだろうか。勿論、文字が発明される前から「どうして〜ようか、〜ない」という反語形は確立していたと考えるべきだ。その反語形を導く音は“ang/ak/ag”に近い音だったが、それに当てるべき漢字は作らず、その音に合う既成の漢字である “安”、“焉”、“悪”、“烏”を 取り敢えずこの反語形の表記に用いることにしたのかもしれない。あるいは、元々あった反語表現が回りくどかったり長ったらしかったために嫌われて、時代が下ってからそれを極端に短縮した発語音が使われ始めたかもしれない。その発語音が“ang/ak/ag”に近い音だったとも考えられるだろう。いずれの考えにも根拠はないが、このように考えると、“寧”という他とは少しばかり異なる音を有する漢字も使われるようになったことも説明し易いように思う。“寧”は意味として“安”に通じるから、“いづくンゾ”の一員に加えられたに違いない。反語を率いる“ang/ak/ag”に近い音を表すために“安”、“焉”、“悪”、“烏”という雑多な漢字を用いてしまったので、本来なら音に絞られる筈の当て字の許容範囲が意味にまで広かったのだとは考えられないだろうか。
 あるいは、こんな想像も成り立つ。大昔には「どうして〜ようか、〜ない」という反語を発語する漢字が存在していたと考えるのである。中国語の発展様式からして、当然の成り行きとして、その音に似た“安”、“焉”、“悪”、“烏”も使われるようになった。しかし、その文字が余りに書き難かったか覚えにくかったために、その漢字自体は使われなくなり、早々に忘れ去られてしまったのかもしれない。現存する漢籍に使用例が残っていなかったために、私たちにはそんな文字があったと認識できないだけなのだと考えるのだ。勿論のこと、未発見の古漢籍が発掘されてその中にこの考えに合致するような未知の漢字が見出されない限り、この空想を裏付ける根拠は無い。

   根拠のない想像は置いておいても、漢文を音韻的に捉えることで理解がより深まることに間違いはない。また、門外漢でも何の抵抗も無くそのような発想で漢文に接しられる理由は、長年あれやこれやを齧り続けてきたからに他ならない。無駄に歳をとってきた訳ではないと胸を張っても良いだろう。「年寄りの冷水」は懲り懲りだが、「六十の手習い」の方は捨てたものではないということだ。「亀の甲より年の功」で「六十の手習い」にも光明が見えると言っておこう。これからも大いに“手習い”を続けたいものだ。尤も、まだ漢文の手習いが終わっていないし、日本古代史の手習いも延々と続くから、新たな手習いに手をつけるのが何時になるかは想像もつかないが・・・・・

(2005年10月9日)


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過ち

8月になると 途端に憂鬱になった自分に気付く
日本の8月が暗いからに違いない
じりじり照りつける太陽の光の中でも尚暗く
陰惨な記憶が閉ざされつつある今も尚暗い
日本の8月はどうあっても暗いのだ
少なくとも 私にとってはそうなのだ

確かに 人の記憶は時の流によって忘却の彼方へと押し遣られる
真夏の日差しが消し飛ぶほどの強烈な光
そんな光で石に焼き付けられた人影ですら薄れるのだから
ひ弱な有機物の働きに過ぎない人の記憶など
簡単に意識の陰に沈み込んでしまうことだろう
だが 記憶自体が無意識の領域へと追い遣られても
その記憶の印象だけは意識の領域を漂うようだ
陰惨な記憶があったという印象が閉ざされることはないらしい
だから 日本の8月はどうあっても暗いのだ

しかも ただでさえ失われ易い記憶を積極的に否定し
あるいは 歪曲しようとする者がいる
過去に過ちなどなかったと強弁する者達がいるのだ
褒められるべき戦などありはしないのに
殺し合いへの道を選んだことを正当化することなどできないのに
戦争は過ち以外の何物でもないのに
なのに 過ちなどなかったと言うのだ
こんな輩の無神経な言動で 日本の8月は更に暗くなってしまう
時の経過と共に 日本の8月は一層暗くなってしまうのだ

真夏の日差しが月明かりほどにも感じられなくなるほどの凄まじい光
そんな光が一瞬にして街を破壊し人を殺した
その燃え殻から発せられる目に見えない光
その光もまた人を苦しめ病ませて
遂には多くを死の淵へと追いやった
日本の8月の記憶とは斯くも悲惨な事実に基づくものだった
まだ失い切れないこの記憶を事実に反して否定することはできない
敢えて否定する者達とは
事実を事実として認識できない唯の阿呆か
あるいは 過ちだらけの人類に残された良心の欠片をすら厭う
そんな邪悪な精神の持ち主に違いない
どちらにせよ そんな連中こそが人類の落ち込んだ闇を深くしてしまう

一瞬にして焼き尽くされ
その後 じわじわと汚染された街に築かれた石碑の文言に
主語は記されていない
従って 誰の過ちなのか記されてはいないのだ
それは 事実を曖昧にするためではない
ただ単に その答が明白だからなのだ
肌の色も 目の色も 何も特定する必要はない
何処で何をした者であるかすら述べる必要はない
私だけではない 彼でも彼女だけでもない
勿論 貴方だけでもない
特定の誰でもない ヒトの社会を構成する私たち総体の問題なのだから
「誰が」と書く必要などなかったのだ

石に刻まれた「過ち」とは私の過ちではない
彼のでもなければ彼女のでもない
言うまでもなく 貴方のでもない
どんな特定の個人の過ちでもない
ただただ 私たち全て ホモ・サピエンスという種が犯した過ちなのだ
そんな単純明快な含意を理解できない大馬鹿者が石碑を穿ったそうだ
ヒトとは左程に賢いものではない
だから 懲りもせずに人殺しを繰り返しているのだ
そんな未熟なヒトだからこそ
過ちを「過ち」と明記しなければならない
繰り返して過ちを悔いなければ進歩しないのだ
進歩を拒絶する者は「過ち」という表現を拒否するがいい
だが その見返りが如何なる恐怖や悲劇をもたらすか
その結果をお前達は予見できないのか

心貧しい者達は
過ちを否定し歴史を恣意的に作り変えようとする
狭小にして猥雑な自尊心を満足させるために
事実をさえ黙殺しようとするのだ
確かに 歴史には来るべき未来と同様に多次元性を認め得る
考古学にせよ文献史学にせよ
幾つもの解釈が成り立ち それぞれに説得力が有り得る
だが 生き証人が物語る事実は決して覆らない
その事実に関する感想が複数存在しても
人が人を殺す結果に陥ったことを「過ち」と言うことに異論は有り得ない

敢えて繰り返そう
褒められるべき戦などありはしない
殺し合いへの道を選んだことを正当化することなどできない
戦争は過ち以外の何物でもない
私は何度も何度も繰り返そう
事実を事実として認識できない阿呆がいる限り
過ちだらけの人類に僅かに残された
僅かばかりの良心の欠片をすら厭う邪悪な精神の持ち主がいる限り
私は何度も何度も繰り返そう
褒められるべき戦などありはしないと
殺し合いへの道を選んだことを正当化することなどできないと
戦争は過ち以外の何物でもないと
私はそう繰り返して叫ぼう
あと何年叫び続けられるか分からないが
ただ 叫び続けよう

(2005年8月6日)


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不定解

 全てに厳密で融通が利きそうにない数学にも、“不定解”というものが有り得る。命題に対する答が一つあるいは一通りに限定できない場合もあるということだ。あるがままの自然界そのものを対象とする数学ですらそうなら、移ろうことを常とする人の心を起点とする人文科学や社会科学の命題については尚更であるし、政治活動や経済活動、あるいは極普通の日常生活においても、何らかの判断を下さなければならない問題には無数の選択肢が存在していて当然だろう。
 私の長男が小学校低学年だった頃、家族で大笑いしたことがあった。それは彼が受けた国語のテストの設問の一つで“穴埋め”の問題だった。他の問題は忘れてしまったが、大笑いの対象はしっかりと覚えている。「(     )をまいてにげる」の(     )の部分に何らかの言葉を嵌(は)め込んで意味のある文章に仕立てるというものであった。常識的な大人なら考えるまでもなく「(尻尾)を巻いて逃げる」と理解するだろうが、折紙で手裏剣を作っては忍者遊びに耽る悪餓鬼には別の情景が頭に浮かんだようだ。それは敵に追われて逃げる忍者の姿であったらしい。解答欄には自信満々の筆圧で(てつびし)と書き込んであったのだ。「(鉄菱)を撒いて逃げる」なんて答は、私のように頭が固くなった大人には思いもよらない。
 私は「なるほど」と膝を打った。「こりゃぁハナマルだ」と思ったのだが、答案用紙には無情にも赤い罰点印が打ってあった。きっと、学校で「尻尾を巻いて逃げる」という慣用句を教えたのであろう。だが、設問にはただ「括弧内に適当な言葉を入れなさい」というような意味合いのことしか書いてはいなかった。意味さえ通れば全て丸印を付すべきではあるまいか。教師が授業で教えた通りの言葉を書かせたいのなら「授業で先生が教えた言い方にしなさい」という但し書きでも付けなければなるまい。
 私はその罰点印を見て、自分の大学時代の試験を思い出していた。教養学部の哲学の試験だった。「アリストテレスの哲学について論ぜよ」という大雑把な課題であったように記憶している。私は、その講義を行った教授の説とはまるっきり異なる独自の解釈を解答用紙(学籍番号と氏名の記入欄があり設問が書かれたただけのほとんど白紙に近い紙のことだが)の表側のみならず裏側にまで書き連ねた。自分では大いに満足したが、結果は“不可”であった。哲学の専門家には私の“個性的な学説”が理解できなかったのであろう。だが、思惟することが先ずもって大事だと説く哲学者が頗る大雑把な問いを発したのだから、一応の筋が通った考察を“不可”と評価する態度は理解できない。左様、何十年かを経た現在でも、未だもって理解に苦しむことなのである。当時は、「哲学とは斯くもせせこましいものであったのか」と考えて、それ以来、哲学と名の付く講義は一切受講しないことにした。お蔭で、私が選んだ理学部で唯一取得可能な資格である教職免許を取ることができなくなった。尤も、類稀(たぐいまれ)な先生嫌いの私だから、端(はな)から教員になる気はなかったのだが・・・

 最近、ヒトは答を一つにしたがる傾向にあるようだ。白黒の決着をはっきりと着けたがると言ってもいいかもしれない。ベトナム戦争の頃のことだが、正規の政府でも軍隊でもないという扱いだったために“ベトコン”と呼ばれたベトナム民族解放戦線が行ったゲリラ戦法を“テロ”と言う人はいなかった。敵対国のアメリカ政府の高官ですらただの戦闘行為として捉えていた。正(まさ)しく戦争なのだから、戦闘行為以外の何物でもない。だが、現在は事情が異なる。アメリカもその追従者も彼らが正規軍と認めないイスラム教徒の軍事組織は全てテロ組織であるかのように扱い、彼らの破壊工作を全て“テロ”と呼んでいるように思える。
 テロリズムというのは暴力主義や恐怖政治のことをいう。従って、暴力の権化たる戦闘行為も“テロ”の一種には違いない。だが、戦時にあっては、双方が武力に訴えるのであるから、お互いに相手を“テロリスト”と規定する必要はない。戦時の戦闘行為たるテロはテロとは呼ばないことが一昔前までの常識だったのだ。勿論、民間人を拉致して要求を突き付け、要求が通らなければその人質を殺すといった行為は戦闘行為ではない。民間機をハイジャックして巨大ビルディングに衝突させることも然りであるし、公共交通機関を時限爆弾で破壊することも同様である。それらは非人道的にして卑怯・卑劣な犯罪行為として断罪せねばならない。だが、武力衝突の現場で、圧倒的に劣る火力と人員数しか持たない勢力の捨て身の攻撃を全て犯罪だとする考え方には同意できない。
 どうやら、現在は“正義に基づく”暴力は戦闘行為であって、“不正義の”暴力をテロと呼ぶことにしたらしい。 “正義”という言葉で白黒を明確に分けて考えたいということなのだ。だが、どちらが白でどちらが黒なのかは判然としないのが常である。何故なら、白を黒と言い包(くる)めるのは大昔からヒトが大の得意としているところであって、自分の正義こそが真の正義であり、敵対者の正義は偽善的なマヤカシなのだと大声で主張し続けなければ、己の正義が危うくなるからである。敵対者は我が旗こそ正義の風にたなびいていると大いに宣伝しているのだ。それよりもっと大きな声でこっちこそが本物の正義なのだと張り合わなければ面目がなくなるということだ。その競い合いの結果、現在では、圧倒的な宣伝力を持っている陣営がより大きな顔をして“正義”を唱えることができるという“ルール”が出来上がっているらしいのである。昔からそういった傾向はあっただろうが、現在では「特定の“正義”しか認めない」という身勝手の極致に至ってしまったように思える。
 だから、暴力の応酬になると、有力者側は正当な戦闘行為を行っているが、その敵対者は不当なテロ行為に走っているという図式に落ち着いてしまう。小学校では「尻尾を巻いて逃げる」が常識で「鉄菱を撒いて逃げる」のは非常識であるように、また、学者たる大学教授のアリストテレス像は実相に迫っているが生意気な学生の言い分はただの戯言であるように、世界の実力者は言葉通り実力(即ち、武力)を以て世界を支配する特権を有しているのだ。私にとってテロルはテロルに過ぎない。白も黒も邪悪なものは邪悪なのだ。私も9・11の“同時多発テロ”は明らかなテロ行為だと認識している。スペインの列車爆破も、ロンドンの地下鉄及びバスの連続爆破も然りである。だが、見境なく独善的に軍事力に訴える大国の指導者がオサマ・ビンラディンやサダム・フセインと如何なる違いがあるのか理解できない。奇怪な論理ゲームは私の理解の範囲を大きく超えているのだ。
 私にはオサマ・ビンラディンやサダム・フセインを擁護する意図はない。どんな人物だか知りもしないのだ。同情もしなければ擁護もできない。ただ、マスメディアの報道からだけでも、オサマ・ビンラディンが彼なりの“正義”に基づいて、彼の信じる宗教が求める聖戦を遂行しているつもりらしいという理解は得ている。また、サダム・フセインがイラクでどんな悪行を為そうが、それに外国人が干渉すべきではないという歴史的に確立された常識は備えているつもりだ。
 国際法の確立していない時代、即ち中世ヨーロッパですら、十字軍は政治的あるいは宗教的な成果を得ることができなかった。あれから数百年も経た現在に至って、新たな十字軍を編成する意図は一体なんなのだろう。有力者の社会では、暗黒時代とも評価される宗教的抑圧の幾世紀を再現したがっているアナクロニズムに取り付かれた輩が多数派を占めているのだろうか。それとも、中世の十字軍がもたらした異教文化圏との交渉による経済的あるいは文化的刺激の再現を夢見ているのであろうか。今ではイスラム文化圏も珍しいものではなくなった。ルネッサンスの再来を夢見る阿呆がいるとは思えない。となると、残るのは経済的な面のみではないかとの疑いを持ってしまう。
 私の常識によれば、自国の経済的利益を求めて他国に攻め込むことを言い表す言葉は“侵略”以外にない。現代の十字軍も侵略軍なのであろうか。私はこの問題に解答を自ら出したくない。何故なら、自国の軍隊もまたその十字軍の片隅に自ら席を占めてしまったからだ。その昔、わが国の軍隊は近隣諸国を思いのまま侵略した。“八紘一宇”という8世紀初頭に完成した大和朝廷を正当化する目的で編纂された空想歴史物語である日本書紀の記述をスローガンに仕立てたのだ。この正義の旗印の下に兄弟たるアジア諸国を統一すると欺いて、実際には経済的な目的で各種権益を得ようとしたのである。多くの日本国民がそんな歴史を潔く清算したいと思っている。なのに、またぞろ、大軍の一翼のそのまた端っことはいえ、また“人道支援”という美辞を操りながらも、他国に武器を持って入り込んだのである。その目的が侵略だと結論付けたくないのは私だけではあるまい。だが、人道支援を旗印にしても、また、派遣された軍人に侵略という意識がなくとも、結果的に侵略に加担してしまったのなら、その行為はやはり侵略と呼ばなければならないだろう。通常の小さな刑事事件でも、未必の故意は処罰の対象になるのだから、このことは素直に認めざるを得ない。だが、それでも尚、自国の良識を信じたい国民の一人としては、絶対に侵略だという結論に達したくない。

 人間の社会に白黒がはっきりする状況などない。いつまで待ってもそんな不自然な社会になりはしないのだ。このままで行けば、人類は不定解の波に揉まれてキリキリ舞いをし続けることになるだろう。不定解を認め、不定解の中から一つの答を選び出すことを粘り強く追求する道を選択しない限り、ヒトはそれぞれが勝手に信じている“正しい答”に心酔した複数のグループで争い続けるということだ。だが、先生が教えたことのみが正解だと押し付けられた子供たちに、不定解の中から一つの答を選ぶという気が遠くなるような努力が必要な行為を選択する度量が育つだろうか。自分が教えたことのみが正解だと信じて不定解の存在に気付かない教師に、豊かなイマジネーションで自分とは異なる“常識”を認め得る人材を育てることができるのだろうか。疑問は尽きない。
 個人や個別のグループがそれぞれの行動を定めるのは各々に課せられた制約と各々の意志に拠る他ない。生きていくには、行動の選択肢が複数あるからといってぐずぐずしてはいられないのだ。決断しなければ次(即ち、未来)はやって来ないからである。一つの高度に制度化された社会の中では、社会のルールに従っている限り、どんな選択肢も非社会的にはならない。非社会的になったら罰せられるだけだし、その罰から逃れることはできない。だが、単一の制御システムで統制されていない集まりにおいてはそうは行かない。一旦ことが拗(こじ)れたら困ったことになる。放っておけば、即、暴力の応酬に走る。野獣の世界のルール、即ち、力の強弱による決着に全ての懸案事項が委ねられるのである。
 そろそろ、こんな野蛮なルールから脱却してもいい時期だ。ヒトは嫌というほど人を殺してきた。もう殺さなくてもいいだろう。不定解を殺しの原因にするのはお仕舞いにしようではないか。人類は殺しあうのが宿命だという論があるが、そんな考え方は積極的に否定しよう。実際に、人類は知恵があるからこそ殺し合いをするのだと言っているかの如き学説があるのだ。とある人種差別の激しかった(今でも差別は残っているが)国の人類学者だが、遺跡から殺し合いの証拠が見つかるのは人類だけだから、人類は太古の昔から殺し合いをする唯一の生物種だと唱えた人がいる。確かに、同種同士で殺しあう動物は少ない。だが、生殖や縄張りをめぐっての争いで命を落とす例が見られる種は少なくないし、共食いをする種も珍しくはない。ヒトに最も近いとされるが明らかにヒトではないチンパンジーもグループ間で殺し合うことが観察されている。
 ヒトはより高い知性があるからこそ殺し合いを止めたと言える状況を作り上げたいものである。先ずは、運命論的に「ヒトは殺しあうものだ」と決め付けることを止めることから始めなければなるまい。だが、より大きな問題はその次のステップに到達することである。それは、人類総体の利益を得るために最善の答を導き出すという単純明快な姿勢を持つということだが、これは未だ嘗て人類が経験したことのない未知の状況なのだ。水掛け論に終わることが明らかな“正しいか正しくないか”という議論を止めようとしたことはないのだ。また、自分が属するグループの利益を第一に追求するのは当然のことだという常識が色褪せる兆候すら見えないのである。
 この困難なステップへと人類が向かうためには、兎に角、ヒトの抱える問題の多くの解は不定なのだと認めることを常識としなければならない。そのためには、それを可能とする柔軟な思考力を育成しなければならないだろう。ところが、「而してその手段は?」という問いに対する答が容易には見つかりそうにないのである。何故なら、ヒトが余りにも不定解の存在に無頓着だからだ。しかも、不定解の中から答を一つ選ぶ手続きには、否が応でも頑な(かたくな)な態度が要求されるが、それは不定解を認める柔軟な姿勢とは馴染まないからである。しかし、確かに、答を一つに絞る際には頑なでなければならない。私自身、ヒトが決断を下す時には飽くまで頑固でなければならないと信じている。頑固な学者の学説には説得力を感じるが、“柔軟な姿勢”を示す学者の言にはいつ変節するか分からないという懐疑心を抱きながら耳を傾けてしまう。頑固な職人の技には安定感を覚えるが、多様にして実験的な職人技には薄氷のひび割れの音を聞いてしまう。斬新さを求めつつどっしりとした安定感を求めるという自己矛盾は常に経験するところなのである。そんな身勝手な人間に不定解を認める度量を求めなければならないのだ。これほど困難な課題があるだろうか。
 課題の達成には尚長時間の模索が必要に思える。だが、その第一歩は踏み出しておくべきだろう。先ずは不定解を認めよう。無条件に認めよう。その上で、アイドルの人気投票のような軽薄な為政者選びのシステムを改変しよう。政界のアイドルたちはあらゆることに無理やり“独自性”を示したがる。それは、とりもなおさず、独善的な決め付けの押し付けを意味する。民主主義制度に乗っかった独裁者ほど始末の悪いものはない。彼らは自分の指先にしか未来はないと言い放って恥じることがないのだ。過去と現在をのみ相手とし、その分岐線上にある多次元的な未来を見渡そうとする学問や芸術の世界にはないものを政治の世界は持っている。それが権力を夢見る政治家たちの一点しか指し示し得ない指先なのである。その指が不定解の存在を否定しているのだ。だから、先ずはその指をへし折ってしまわなければならない。
 私がエリートビジネスマンだった頃、自分の意見を自信満々の態度で表明することが常であった。しかし、その意見は多数の選択肢の一つであり、その中から選ばれた理由は斯くの通りだという説明を抜きにすることはなかった(と信じている。) だが、私たちが現在、日常的にマスメディアを通して見る為政者たちの態度は余りに独善的に過ぎる。曰く、「現在は政府が管掌していることであっても、民間で出来ることは民営化されるのが当然である。」 ご尤もな意見ではある。が、特定の対象が槍玉に挙げられた理由の説明は希薄だし、残された他の多くの対象をどうするつもりなのかということは闇の中にある。私なら、郵便事業より先に予算案の作成作業をこそ先ずは民間の財界人に任せては如何なものかと考える。お化けの如き財政など、夢見る政治家や保身的な官僚や生硬な学者の手に負えることではない。生きるか死ぬかの修羅場を潜り抜けてきた財界人にこそ扱える問題だろう。決定するのは今まで通り国会にしておいてもいいだろうが、予算案の作成は官僚から民間人に変更した方が現実的な筈だ。
 尤も、その財界人が中心となって不正を働くこともある。大手自動車メーカーのトラブル隠しなどその見本であろう。そんな財界を信用することはできないという意見もあるだろう。だが、そのように非難する政界や官界にも汚職の摘発が絶えたためしがない。このように考えていくと、果てしなく堂々巡りが続くのである。そこで、私の提唱する第一歩に話を戻すが、諸悪の根源が何であるかを議論すること自体が堂々巡りの一つなのであって、兎に角ターゲットを一つに定めて、エイヤッと行動を起こさなければならないのだと思う。そのターゲットが“アイドルの人気投票のような軽薄な為政者選びのシステムを改変しよう”ということなのだとご理解願いたい。山積された現代社会が抱える諸問題を解決するには、否でも応でも政治というものから離れることはできない。だから政治を司る者たちの選び方を第一に取り上げようという単純な発想なのだ。
 それが最善の筋道なのかどうか、それこそ不定解の海の中では、判断が分かれるところであろう。しかも、どのように改変すればいいのか分かっている訳でもない。だが、私はこの点を手始めにすべきであると信じている。このところ、日本だけに限らず、政治家の傍若無人にして思い上がった態度が目に余るからである。このままでは、そういった連中が世界中を大混乱に巻き込みそうなのだ。そんな危険な人物を政治の場から放逐したいと考えている人は多いと思う。名前も知らぬ同志諸君、不定解の嵐へと身を投じようではないか。不定解の存在を無視する輩に目に物見せてくれようではないか。不定解の嵐の中でこそ真価が認められる本物の民主主義を我が手にするべく、弛むことなく不定解の中から一つの答を見つけ出すことに勤(いそ)しもうではないか、互いに名前も知らぬ同志諸君よ。

(2005年7月17日)


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小学生に英語?

 小学校から英語教育を始めるべきか否かが論議の対象となっている。既に、その真似事を行っている学校も多いと聞く。とは言え、必ずしも語学の専門家を招聘するというわけではなく、ただ英語を喋るというだけの外国人を連れて来て子供たちにゲームをやらせる程度のことらしい。しかも、一年生から六年生までの全学年の児童を一同に集めて行うことも珍しくはないという。一年生にも対応できるゲームなら、その程度は知れている。私は六年生をはじめとする中・高学年の子供たちにとってはさぞや迷惑なことであろうと同情するのだが、それを企画した先生たちは異なった意見を持っているのだろう。どんなご意見なのかは想像もできないが、到底、それがまともな考え方だとは思えない。
 民間の“英語塾”でも幼児クラスが大流行で、まだ母国語もまともに理解したり喋ったりすることができない多くのお子ちゃまが、週に一度、30分か45分のレッスンを受けている。勿論、その子供達の親のほとんどは英語ができないか、できたとしても大した能力ではないらしい。私には無縁の世界のことなので私自身が確かめた訳ではないが、そのような幼児クラスを幾つか担当している英語のインストラクターから得た情報なのだから、多分、本当のことなのだろうと思う。もしそれが事実であったなら、たとえ英語のインストラクターが英語に習熟していたとしても、その子供たちがまともな英語に接するのは一週間の間にたったの30分か45分だということになる。幼児への英語教育については「やるのとやらないのでは全然ちがう」という理屈を振りかざす人々が優勢になりつつあるようだが、私にはどうしても同調できない。週に30分か45分では、「限りなく“やってない”状態に近い」としか考えられないのであって、そんな状態を「やっている」と見做して「やっていない」に対置できる状況ではないからだ。
 現実問題としては笑っている場合ではない話なのだが、そんな幼児の英語クラスについて、思わず苦笑してしまうような笑い話を聞いた。レッスンが終わると、インストラクターは“See you.”と声を掛けて子供たちを教室から送り出す。子供たちもそれを真似て“See you.”とまぁまぁ正しい発音で答える。ところが、迎えに来ていた親たちがその真似をすると悲惨なことになる。元気よく“She you!”としか聞こえない挨拶を送ってくるのである。左様、親たちには正しく“see”という発音ができないのだ。“see”の頭音を日本語の“し”で発音するので、“she”としか聞こえないということになるのである。毎日そんな親と生活している子供たちは、次の週には“see”が“she”になってしまっている。元の木阿弥で、一からの出直しを毎週のように繰り返すということになってしまうのである。それでも、一年もすれば“see”という発音を正しく覚えるそうだが、余りに無駄の多い一年だと評価すべきではあるまいか。

 現在、日本の子供たちは効率よく学ぶことを求められている。学校も週休二日だし、一日の実質的な授業時間も昔に比べれば減っている。“ゆとり”を大切にするこのような状況下で尚且つ学力を維持しなければならないのだから、必然的に、子供たちには効率的に学ぶことが求められるということなのである。元の木阿弥を繰り返すような無駄な“学習”に費やす時間などありはしないのだ。実に気の毒なことではあるが、これが現実なのだから仕方ない。更に、幼児や小学生にとって、自ら効率的な学習方法を編み出すことは不可能に近い。親や教師の指導に頼らざるを得ないということだ。ところが、その親や教師や教育行政に携わる大人たちが当てにならないのだから、二重に気の毒と言わなければならないだろう。
 何が当てにならないかは、冒頭で述べた英語教育の話で全てが物語られていると思う。子供たちに無駄な時間を過ごさせることに躊躇しないことだけでも当てにならないと評価するには充分だ。今の日本で、「小学校から英語教育を始めるべきや否や」なんて議論している暇はない。“ゆとり教育”は子供たちの学力の維持に失敗したどころではないことを直視しなければならないのだ。基礎知識や基本的な理解力が不足しているなどという生易しい状況ではない。いい歳になっても母国語である日本語ですらまともに操れないお馬鹿を量産してしまったのである。そんな現実を知りながら、「国際人を育てるためには幼少からの外国語教育が必要だ」などと宣う御仁の気が知れない。
 国際人の基本は外国語ではない。何より大切なのは、世界中の人々と互いに理解し合えるだけの知性を身に着けることだ。母国語も満足に理解できない人間に、国際人という呼称に足る知性を養うことはできない。外国語を学習する前に、昔ながらの基礎学力を備えなければ、折角の外国語も役立つ機会に恵まれることはないと断言する。外国語の単科大学でも、単純に言語だけを教えることはしない。その言語そのものの歴史や、その言語を操る人々の歴史や社会を学んで初めてその言語が生きてくるからである。言語はコミュニケーションの道具に違いはないが、単なる道具ではない。言語は、他の動物種にはない知性という特性をヒトが獲得するに至った根本であり、従って、その知性の表出方法の基礎なのである。知性を意識することなく言語について語ることは許されない。現在の日本で、小学校でも英語を教えるなどと提案するなんてことは真にもって烏滸(おこ)がましい限りなのである。先ずはまともな学力を養うことに腐心しなければならない筈なのだ。
 私は教育者ではない。ただの医薬品会社の研究員にすぎなかった。何年かに亘って大学で集中講義を受け持ったことはあるが、プロの教員ではないのである。ただ、若い人たちが年々お馬鹿になっていく様子は、私が長年在籍していた研究所で嫌と言うほど目にしてきた。私たちの世代は他人のやらないことやできないことを掘り下げていくことが研究だと思っていた。だから、論文のコピーが山のように積み上がるまで調べ上げて自らの研究テーマを探し、研究方法を自ら作り上げ、ようやくの思いでささやかな試案を作り上げたものだった。しかし、後輩たちは自らに頼ることを厭い始め、何につけても“先生”について教わることを望むようになっていった。そして、遂には、「習ってないことはできない」と涼しい顔で言い放つようになってしまったのだ。全ての若者がそうなったとは言わないが、そのようなお馬鹿の比率が高まったことは事実だ。このように、日本人の知的レベルが極端に低下していることは、全ての分野で観察されている事実だと思う。
 知的水準の低下の原因は単純で、程度の低い限定された知識を大人が作り上げた融通の利かない枠にはめ込んで、その枠通りに“ゆとり”を持って子供たちに教え込もうとしたからだ。どこかの“有識者たち”は、これこそ落ち零れを少なくする最善の方法だと信じていたのだろうが、実際には、普通にしていれば学力を身に付けられる子供まで落ち零れにしてしまう愚策だったのである。教師の役目は単に知識を刷り込むことではない。私は、子供たちの知的好奇心を掻き立てることこそが教師の最大の務めだと信じて疑わない。子供たちの好奇心を刺激するには、駄菓子屋の店先のように目移りするほどに豊富な素材が必要だ。子供たちは、そんな雑多な物どもを引っ繰り返すことによって自分の今日のおやつや遊び道具を見つけ出す。手にした一つ一つの駄菓子や玩具で楽しんでいる自分を想像することによって様々な感覚が刺激されるのである。ネタは多ければ多いほどいい。算数を例にとるなら、演算技術に飽き足らない子供に算盤を教えるなんて愚の骨頂だ。そんな子供には学年の枠をはみ出して数学的真理を教えればいい。四則計算を早く正しく行うことにのみ興味を抱く子供には理屈抜きで算盤の技術を徹底的に教えればいい。全てを大人が作り上げたプログラム通りに押し付けようとすることを教育だと勘違いしてはならないのだ。
 今や日本の教育は破綻している。中学で習ったことを全く理解していない高校生がいるのはどんな地域でも普通のことだ。中学生程度の学力しかない学生が大手を振って闊歩している大学も星の数ほどある。行政は落ちぶれた既成の大学を見捨てて、大学院大学だの法科大学院だのといった、昔なら普通の学生に過ぎない者を超エリート学生に変身させてしまう施設を新設することに狂奔している。そんな小手先の施策で日本人の知的レベルを維持できると思っているのだから実におめでたい。一握りの知識層を温室で育てても日本人の知性は守れない。日本人社会に歪(いびつ)な二極構造を作り出すだけのことだ。
 本気で日本人の知性の劣化を防ぎたいのなら、既存の教育システムと教育機関を根本的に変革することだ。特に、幼稚園と小学校は教師を総入れ替えするつもりで作り変えなければなるまい。例えば、書き言葉と話し言葉の区別も弁えないような国語教育は百害あって一利なしだし、そんな作文指導に慣れ親しんだ教師には早々に引退していただくべきだろう。言葉の習熟に文法は必要ないとの意見は昔から根強いが、私が何気なく使っていた母国語である日本語を自分自身が満足できる程度に理解できるようになったのは、国語文法を勉強してからのことであった。最近の英語教育では文法を全く教えないに等しいらしいが、それで全ての学生が英語の学習に満足するとは思えない。不法入国者の多い国で耳にする話だが、不法入国者たちは直ぐに言葉を覚えるらしい。瞬く間に現地人と早口で罵り合うようになるそうだ。ところが、そういった不法入国者たちと論理的な会話を交わすことは極めて難しいという。日常の買い物や喧嘩には不自由しないが言葉の意味をしっかりと理解することはできないということなのである。私たち日本人が英語を学ぶのは、英語圏の人々と罵り合いをしたいからではない筈だ。語学教育が知的なコミュニケーションを目的とするなら、文法教育は必須だろう。文法の学習を厭う者もいるだろうが、文法を理解することによってより効率的にあるいは深く外国語が学べるであろう者まで一律に文法から遠ざけるのは愚の骨頂だ。

   さて、好き勝手な罵詈雑言を教育界に向って放ったが、日本の子供たちが抱える大問題は教育界を罵倒しただけでは片付かない。教育システムのあるべき姿を明確にして早急に新システムによる教育に切り替えなければならないのである。これは実に困難な課題ではあるが、だからといって、有耶無耶にはできない。私が何をほざいたからといって、波紋一つ起こしはしないが、子供たちの将来を憂える者の一人として考えていることを簡単に述べておきたいと思う。
 先ず第一は、既に上で述べたことだが、子供たちの興味の向く方向と深さを予め限定しないように努めることであろう。薄っぺらな教科書はいらない。駄菓子屋の店先のように色んなものが山積みにされている教材を選びたいものだ。勿論、教材の変更は機械的な教材作成作業では終わらない。教材の間口と奥行きが広がると、一人の教員の能力では対応しきれないからである。教員の質と量の問題が付随的に発生するということだ。だが、私には解決策が以外に簡単に見つかるように思える。大して意味のない“教員免許”なんてものを無視すれば、世の中には立派な人材が多く眠っている。リタイヤした知識人や職人や所謂その道の達人を活用すればいい。安い賃金のパートタイマーとしてでも、子供たちの教育に熱意を傾ける人は少なくないと思う。教員免許の上に胡坐をかいている駄目教師を徹底的に排除することと抱き合わせで自由な教員登用を推進すれば、子供たちの好奇心の高揚に対応できるだけの教師層を作り上げることができるはずだ。
 二番目は、そのような自由な教員登用や自由な教材選びを制限するような行政システムを排除することだろう。先ず、国による教育統制は即刻やめなければならない。教科書の“検定”など論外だ。国による教育指導要綱も不要だろう。全国一律の駄目教育よりは地域性の高い独自教育の競合状態の方が優れた教育システムの構築には役立つと信じている。教員免許がないと安心できないというなら、教員免許の制度は残してもいいだろう。だが、そんなに“免許”に権威を認めるのなら、定期的な更新制度を設けるべきだ。勿論のこと、国家権力の恣意的な運用を排除できるような更新制度でなければならない。教育委員会の大改編も必要だろう。現場の教師の体験や思い付きが生かされるような“委員会”なら大歓迎だが、官僚的な統制を目的とするような組織は歓迎しない。とにかく、公安委員会だの教育委員会だのといった行政に係わる“委員会”には怪しげな匂いが付きまとっているように感じられてならない。そのような匂いが払拭されなければ、公安委員会や教育委員会が警察や文部科学省の窓口機関であるかのように誤解される現状からは脱却できない。
 付随的な課題としては、義務教育以外での学力認定を厳しくすることが求められると思う。然るべき学力もないのに高校を卒業させたり、大学で学ぶ基礎的な力がない者を大学に入学させることを止めさせなければならない。それなりの収益がなければ私学は維持できない。商売としては綺麗事だけではすまされないのだろうが、現状は余りに酷い。娼婦かルンペンと見紛う女子高生がテレビジョンに登場することがあるが、本人たちの馬鹿さ加減に呆れる前に、そのような学ぶ意思を持たない人間を在籍させている学校の姿勢に首を傾げてしまう。とにかく、学校の敷居は学ぶ資格のない者にとっては高いものでなければならないと思う。レベル維持のために際限なく“より高度な学問の府”を作り続ける前に、既存の教育機関の質を高めることに目を向けるべきなのだ。
 細かい問題としては、国語教育の充実を訴えたい。昨今は技術偏重で理系が矢鱈と持て囃されている。私自身も理系の人間だが、そんな私が言うのだから「国語教育が全ての前提である」ことは確かなことである。数学は数式のみで事足りると思っている人がいるようだが、数学の基礎もまた国語なのだ。数学的空間を構築するのは箇条書きにされた数式ではなく、母国語で明確に確認された体系的な概念なのである。国語教育というと、“語りかけるような作文”とか“キラリと感性が光る詩”を誉めそやすことなどが流行っているが、そんなものは見せかけの教育に過ぎない。話し言葉での作文を指導された子供には文章力はつかない。“語りかけるような作文”に習熟しても、まともな文章を書くことはできないだろう。それだけでなく、他人の書いた文章を読解する能力もまた養われはしない筈だ。商品のキャッチコピーのような“気の利いた言葉”を単純に「詩」と評価することはできない。詩人が思いつきで詩を書くことはほとんどない。推敲を何度も繰り返し、言いたいことを言い尽くせない言葉の限界に苦悩し続けた結果が「詩」なのである。コピーライターですら一言のキャッチコピーに呻吟している。子供の思い付きの言葉を誉めそやすのは子供の自省的な吟味能力の発達を阻害するだけだ。それやこれやの子供をスポイルするような指導が国語教育と呼ばれていることに怒りだけでなく絶望すら感じる。
 最近では、美しい言葉で書かれた文章や詩の暗誦が忘れられているようだ。古文から知ることが出来る母国語特有のリズムなども無価値だと思われているらしい。立派な日本語の一つである漢文に至っては、古代中国語に過ぎないと排斥する者すらいる。小学生に英語を教える暇があったら、そんな忘れ去られた本来の国語教育の復活に努めたらどうだろう。繰り返すが、正しく母国語が操れない者に正しく外国語を理解することはできない。「先ずは国語」でなければ嘘だ。算数や理科や英語で落ち零れる子供たちの多くが、実は国語に落ち零れているのだと知らなければならない。とある大学では、講義を理解できない学生が多過ぎるので、正規の講義の前に「国語」の授業をしているそうだ。そのような現状を知る人なら、私の国語教育優先論を指示してくれると信じている。小学校で英語を教えようなどと戯けたことを言っている御仁は、若者や子供たちの現状を全く理解していない浮世離れした大馬鹿者か、あるいは、幼い頃に選別されて隔離された施設で育て上げられた一握りの超エリートたちに日本の将来を託そうとする現実離れしたお人好しに違いない。
 私は一握りの超エリートを育てたいとは思わない。その昔、驚異的な近代化を日本で実現させたのも、太平洋戦争で荒廃した国土を驚異的なスピードで回復させたのも、それらは決して一部のエリートの力ではなかった。国民の知的レベルが押し並べて均質で、他国に比べて高い部類の水準にあったことこそがそれらの実現の決定的な要因だったと承知している。私の意見をどのように評価するかは置いておいても、考えてみていただきたい。 “正しい教育”とは、現在の為政者たちがもとめているように、一握りのエリートを育てることなのだろうか。それとも、試行錯誤を恐れず、国民の平均的な知的レベルを確実に押し上げる方向を模索できる制度を保障することなのだろうか。選ぶのは私たち自身なのである。兎に角、考えていただきたい。残念ながら、教育システムの構築は官僚と政治家と一部の知識人だけに与えられた特権であるかのように事は進んでいる。教育の有り様(ありよう)を庶民のレベルで論議できる場を早く作らないと、日本の子供たちが一人残らず駄目になってしまう。そんな危機感を持っているのは私だけなのだろうかと心細い。だから、先ずはこの問題を真剣に考える同志が増えることを願って止まない。

(2005年6月20日)


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サファリパーク→女性専用車輌→「魏志」倭人伝

 先日、とある年寄りと話をしていた時のことであった。その年寄りが、頻りに「サファリパークへ行きたい」と言う。暗に「連れて行け」と言っているらしいことは察知できた。だが、そんなことは無視して、私は思い付く限りの屁理屈を並べ立てて、サファリパークなどへ行きたいという私自身の本音を語った。第一に、「太古の昔から、君子たる者は危ないものには近寄らないものである」と説いた。実際、君子だろうが小人だろうが、猛獣に取り囲まれるなどという険難な事態に自ら進んで陥るなんて、そんなことを正気の沙汰とは思えない。次に、「君子たる者は慎み深いものであって、自らを見世物にはしない」と説いた。私の場合、例えば、“タレント”とかいう職業に就いて、自らの姿を陳列しつつ己の馬鹿さ加減を曝け出すなんて恥ずかしいことはしたくないし、職業ではなくても、更に、相手が人間でなくても、周りからまじまじ観察されるなんて立場には絶対に立ちたくないのである。何を言いたいのかご理解いただけるであろうか。サファリパークでは、人間たちは自分の乗用車あるいは窓に鉄格子のはまった乗り合いバスで猛獣を見物してまわる。当人たちが何の疑いもなく自分たちを見る側だと信じていることは確かだが、よくよく考えてみると、別の考え方も成り立つことに気付く。のうのうと三食昼寝つきの生活を謳歌している猛獣たちによって、自走式の檻に閉じ込められて引き回されている人間たちが観察されているのだとも言えなくはないのだ。私は、好奇に満ちた動物の目に曝されるのは嫌なのだ。たとえ、「美味しそうな猿に似た動物だ」と猛獣たちから“高く”評価されるにしても、晒し者にされるなんてことは断じて願い下げる。
 そんな話をしている最中に、私の想念は漂泊し始めた。これは何時もの癖なのだが、屁理屈を捏ねると私の連想力に妙な弾みがついてしまう。サファリパークの話をしているうちに、我が妄想癖があらぬ方向へと突き進んでいってしまったということなのである。どういう思考回路にスイッチが入ったのか判然とはしないが、近頃話題の列車の“女性専用車輌”のことが頭に浮かんできてしまったのだった。サファリパークでは人間を頑丈な自動車によって獰猛な野生動物から保護している。同様に、いつ痴漢へと変身するか分からない好色な男どもからか弱い女性を隔離するために生まれたのが“女性専用車輌”である。今にして思うに、そのような“保護”とか“隔離”という共通項が連想のきっかけだったのだろう。まぁ、そんな私の制御不能な野次馬的思考回路などはどうでもいいが、改めて考えてみると、この“女性専用車輌”というものも、どちらが見物席側なのか分からないサファリパークの鉄格子バスと同様に、真にもって奇妙な存在ではある。
 「このようなシェルターとしての機能を有する車輌があって当然だ」という考え方は、「電車の中には相当数の痴漢がいる」ということを前提としなければならないし、この前提を更に推し進めれば、「満員電車に乗っている男性の多くは痴漢行為に及ぶものである」と結論付けなければならない。別の角度から見れば、“女性専用車輌”の存在を当然だと考えることは、世の女性が満員電車に踏み込むことは人間がサファリパークの猛獣飼育域に無防備で立ち入ることに等しいと認めていることを意味する。いつからこんな情けない世の中になってしまったのだろうか。痴漢の問題だけでなく、最近は「日本の安全神話は崩れ去ってしまった」と言われる。本当に、どうして日本の社会はこんなに駄目になってしまったのだろうか・・・そんな風に考えていると、またしても私の意識は浮遊し始めた。しかも、今度は時空を超えてしまったのだった。古代日本の社会のことに思いが沈み込んで行ったのである。私がこの目で見てみたいと熱望して止まない古代日本の社会は、現代社会のように“情けない”ものではなく、より立派な社会だったに違いないと、私が勝手に思い込んでいるからだと思う。そういうことで、暫く、古代日本社会の話にお付き合い願いたい。話を出発点であった“女性専用車輌”や“サファリパーク”へと巧く回帰させられるかどうか分からないが、兎に角、そのときの連想を逆に辿りながら話を進めたいのである。

 大昔の日本人の姿は中国の正史中の日本伝(倭人伝/倭伝/倭国伝)に描かれている。その中でも最も有名なものは「魏志」倭人伝であろう。私の愛読書の一つであり、私の古代日本人像の形成に最も大きな影響を与えているものである。たった2000字余りの文章なのだが、その内容の解釈は学者によって様々だ。そんな色んな専門家が唱える説がごちゃ混ぜになって形作られつつあるのが私の古代日本人像なのである。少し長くなるかもしれないが、そんな継ぎ接ぎだらけの倭人像について先ずは述べたいと思う。
 邪馬台国へ至る道程を述べた冒頭部分にも、当時の日本人の習俗を知る手掛かりがある。朝鮮半島のはるか沖合いの島であるツシマ国では、「良い田がないので、海産物を食べて過ごすとともに、船で南北の国と交易して米を買い求める」とし、更に南の島であるイキ国でも「畑があり田も耕すが収穫が充分ではないので、やはり南北の国から米を買ってくる」と伝えている。対馬や壱岐の住人は、船を操り、朝鮮半島や北九州の国々に出掛けて活発な交易活動を行っていたのだ。察するに小船であったと思うが、達者な航海技術を有していたということになる。また、九州北部沿岸部と目されているマツラ国を説明した部分には、「魚や貝を採ることが上手で、水深が深かろうが浅かろうが、みんな水に潜ってそれらを採る」とある。飽くまでマツラ国の住民のこととして書かれているが、沿岸部に住む当時の日本人の多くが潜水漁法に長けた海人(海の民)であったことは、全国の貝塚の遺物などから推察することができる。船を操る技術といい、海に潜って魚介を得る技術といい、日本人の底流が海洋民族であったことは疑いないように思う。
 卑弥呼のいる邪馬台国に至る道順とその女王国に服属する国々と服属しないクナ国とについて述べた後に、本格的な倭人の習俗・風俗についての記述が続く。先ず触れているのが刺青についてである。「男性は、身分の上下に拘わりなく、みんな顔および体に刺青を施している」とし、その由来については、「その昔、夏后の少康の子が会稽に封ぜられたとき、髪を切り体に刺青を彫って蛟龍の害を被らないようにした。今の時代の倭の海人が巧みに潜水して魚介を採るに当たって体に刺青を入れるのも、少康の子と同様に、鮫や大型の海鳥から身を守るためだった。それが、後に、飾りへと変わったのである。刺青(の紋様)は国によって異なり、(彫る位置が)体の右側だったり左側だったり、(彫る紋様が)大きかったり小さかったりする。また、身分によっても差がある」と言っている。この記述の全てが事実であったかどうかは分からないが、刺青を潜水漁法と関連付けていることには注目すべきだろう。当時の中国人が倭人を海の民だと捉えていたことを繰り返して物語っているように思えるからである。
 この刺青の件(くだり)に続いて、「その(倭人の)風俗は乱れてはいない。男性は髪をきっちり結って冠を被ることをせず、(髪は角髪にして)木綿(“ゆう”あるいは“ゆう”の繊維を織った布)の鉢巻を締めている。着衣は幅広の布を体にまとって結わえるのであって、布を縫うことは殆どない。女性は髪を後ろで束ね、ワンピースの夜着のような衣服を仕立ててその真ん中に穴をあけ、そこから頭を出して着ている」と記されている。中国人にとっては、冠を被り襟のある衣を右衽(みぎまえ)に着付けて靴を履くことが文明人の証であったから、頑張ってもせいぜい貫頭衣止まりという原始的にして奇妙な態をしており、おまけに刺青をしている倭人は紛れもない野蛮人に見えたのであろう。だが、それにも拘わらず「その風俗は乱れてはいない」と明言している点に注目しなければならない。当時の日本人が、貧しく素朴ながらも、清潔できっちりした服装であり、且つ、文化的な生活態度であったことが知れるのである。
 産物などについては、「稲と麻を作るカラムシを栽培し、養蚕して絹糸に紡ぎ、目の細かい麻や緻密な絹布を作る。その地には牛、馬、虎、豹、羊、鵲(かささぎ)がいない。武器としては矛、楯、木弓があり、弓は下を短く上を長くして持つ。竹の矢柄(やがら)に鉄あるいは骨の鏃(やじり)をつける。産物や動植物等の有様はタンジやシュガイ(いずれも中国広東省の地名)と同じである」と述べている。タンジやシュガイの直ぐ東には台湾がある。当時の中国人が、日本の動植物相や物産がそんな低緯度の地方と同じだとしていたことには大いに驚く。が、もっと首を傾げなければならないことがある。ここで見たように、3世紀の中国の書籍である「魏志」倭人伝が「日本では上質の絹布が作られる」としているにも拘わらず、「古事記」に描かれている仁徳天皇は蚕を“珍しい虫”だとしているのである。仁徳天皇は多分実在していたと思うが、それは卑弥呼の時代より100年以上後のことなのだ。卑弥呼の時代の日本に上質な絹布があったのに、それより百数十年を経た日本の最高権力者が絹を生み出す蚕を知らなかったとは実に不思議である。大昔には、中国でも日本でも、権力者は自ら養蚕していたと考えられているからである。仁徳天皇は彼に蚕を見せた渡来人(韓人)であるヌリノミや魏の国に絹布を献上した卑弥呼とは異質な世界に属する人なのであろうか? まさかエイリアンだとは思えないのだが・・・
 この謎はそう簡単に解けそうにないので次へ進もう。続けて、「倭の地は温暖で、冬でも夏でも生野菜が食べられるし、みんな裸足で過ごす。屋室があり、父母兄弟は別々の場所で就寝する。朱を体に塗るが、これは中国で白粉を用いるようなものである。食事には高坏(たかつき)を用いて手で食べる」とも書かれている。「屋室があり、父母兄弟は別々の場所で就寝する」ということからは、それなりの文化的な節度/秩序の存在が窺われる。また、葬礼については「死者を葬るのに、棺はあるがその棺を納めるカク(“キヘン(木)”に“郭”)はない。(棺を埋めた上に)土を盛って塚をつくる。人が死んでから十日余りは埋葬しないで“もがり”を行う。その間は、肉食せず、近親者は哭泣し、その他の人々は酒を飲んで歌い舞う。埋葬が済むと、近親者は禊(みそぎ)を行う」と言う。更に、渡海して中国に至る道中については、「常に、一人の者を選び、髪を梳らせず、虱を取ることもさせず、衣服は垢で汚れるままにさせ、肉食させず、婦人に近付かせず、葬儀の際の喪主のように振舞わせる。この選ばれた人を持衰(じさい)という。何事もなく渡航できれば、持衰(じさい)には報酬として奴婢や財物が与えられる。もし病人が出たり船が遭難した場合には、皆は持衰(じさい)を殺そうとする。持衰(じさい)の謹慎が不充分だったからだと言う」と伝えている。倭人から原始的で未開な匂いを拭い去ることはできないが、それにも拘わらず、倭人が非常に慎み深かったことが知れる記事だと思う。“もがり”で酒を飲んでドンチャン騒ぎをやらかしているが、これは決して不謹慎なことではないのである。「天の磐戸」伝承で、磐戸に隠れたアマテラスオオミカミを誘い出すために神々が大騒ぎをしたとされている点に注目していただきたい。あれは死者を甦らせようとする“もがり”での呪術的な儀式を神話化したものに他ならない。太古の日本人は、人の死に際して、大真面目で一心不乱にドンチャン騒ぎをしていたのだ。
 この後ろに、またしても、倭国の物産や動植物について述べているが、その中で面白いのは、倭国の特産品として真珠と翡翠(ひすい)と辰砂を挙げていることと、生姜、柑子、山椒、茗荷はあるがそれらを薬味として利用する法を知らないとしている点である。倭人が潜水に長けていることは度々触れられている。真珠が特産品とされるのは不思議ではない。しかし、日本における翡翠の産地は新潟の姫川だけなのである。そのたった一箇所から産する翡翠が太古の日本全国に行き渡っていることは考古学的に裏づけられている。このことだけでも驚嘆に値すると思うのだが、更に、姫川の翡翠が中国人にも知られるところとなっていることは大いに驚愕すべきことだと思う。船を自在に操って盛んに行った交易の結果なのであろう。やはり、日本人の根幹には海人の匂いが立ち込めている。薬味の件については「はぁ、そうですか」としか言い様がない。古代日本人は刺激物が嫌いだっただけなのかもしれないからである。因みに、私自身はワサビとホースラディッシュ以外の刺激物は好まない。ただ、柑橘系の香りは好ましいと思っている。別に倭人の“無知”をフォローするつもりはないが、現代人であっても必ずしも薬味を好しとはしないのだということを強調したいと思う。
 これに続いて占いの習慣について書いてある。「習俗として、事を起こす時や旅立ちに当たって意見が分かれた場合には、骨を焼いて吉凶を占う。先ずは占う対象について述べるが、その言葉は令亀の法(亀の腹の甲を焼いて行う中国の占い)に似ており、(令亀の法と同様に)焼かれた骨の割れ目に予兆を見る」と言う。焼くものは違うが、中国と日本で非常によく似た占いを行っていたということになる。これは偶然なのだろうか、それとも、互いに同根の風習を持っていたということなのか、あるいはどちらかが他方に学んだ結果なのであろうか。日本でも、古墳時代には占いに亀甲を用いるようになったということだが、これは明らかに中国の真似をしたのだと考えられる。だとすると、それ以前の弥生時代における骨(鹿の肩甲骨)を焼く占いは中国の影響ではないとも考えられるのだが・・・俄かには答を得られそうにない。
 この次がまた面白い。「寄り合いへの参加やその席での立居振舞に父子男女の分け隔てはなく、彼らは皆生まれ付いての酒好きである(寄り合いでは酒が振舞われたということであろう。) 大人(身分の高い者)への表敬はただ両手を打ち合わせるだけで、それが跪拝(きはい:中国での表敬方でひざまずいて拝むこと)に相当する」なのだそうだ。全体としては、中国に比べて文化水準が低いことが述べられているのだが、その中にも興味深い記述が見える。先に、「屋室があり、父母兄弟は別々の場所で就寝する」というそれなりの節度/秩序の存在を窺わせる記事があったが、そうでありながら、ここでは、「寄り合いへの参加やその席での立居振舞に父子男女の分け隔てはなく」その寄り合いで振舞われたであろう酒を共に楽しんでいる様が描かれている。また、支配者階級への表敬も簡単で、男女差別や身分差別が然程には酷くなかったように思われるのである。要するに、倭人は大らかな性質の持ち主であったということらしい。それにしても、葬式の件でも「酒を飲んで歌い舞う」とあることからして、「魏志」倭人伝を含む「三国志」を撰述した陳寿が言う通り、日本人は酒好きだったと認めざるを得ないであろう。日本の“酔っ払い天国”は遠く弥生時代にまで遡ることができるのかもしれない。いや、長弓の下の方を持って矢を射るという伝統が現代まで続いていることを考えれば、“酔っ払い天国”の長い伝統を想定することにも大きな無理はなさそうだ。
 また、これに続く部分では、「人々は長寿で、ある者は百歳、またある者は八、九十歳になる。習俗として、大人(身分の高い者)なら四、五人、下戸(一般人)でも二、三人の妻を持つが、女性には節度があり嫉妬することはない。盗みもなく、争い(あるいは、その結果としての訴えごと)も少ない。法を犯した場合、軽い罪の者は妻子が奴婢として召し上げられ、重罪なら一家に止まらず一門に及ぶまで滅ぼされる。身分による序列があるが、皆それは従うに足るものだとしている」という。身分制が確立しており刑罰も厳しかったが、そのような社会秩序を進んで受け入れていたようなのである。なにより目立つことは、人々に節操が備わっており、窃盗のような犯罪が殆どないだけでなく争いごと自体が少なかったという点であろう。日本の“安全神話”は弥生時代にはすでに存在していたのだ。“長弓の下方持ち”や“酔っ払い天国”と同様に、“安全神話”も日本の古い伝統だったのである。因みに申し添えるが、「一門に及ぶまで滅ぼされる」という刑罰は確かに厳しいが、それでも当時の中国のような残酷な刑罰はなかったとされている。手足を切ったり鼻を削いだり去勢するといった中国では普通に行われていた“肉刑”が日本にはなかったということだ。「日本書紀」には刑罰として刺青を入れたり脚の筋を切ったという記事が見えるが、それらは事実ではなく、特殊な氏族に限って後世にまで残った刺青の風習や貢納時の跛行儀礼の起源譚に中国での刑罰が利用されたのだとする学説が正しいように思われる。このような理解こそが、倭人が大らかで争いを嫌う穏やかな性格であったらしいという事実にそぐうからである。
 この部分に続けて、租税や官吏のことなどの支配体制に関係したことが若干記述されているが、その次には、社会秩序が整然としていたことを窺わせるもう一つの記事がある。「下戸(一般人)が大人(身分の高い者)と道路で出会うと、後退りで草の生えたところ(路傍)に寄って路を譲る。下戸(一般人)が大人(身分の高い者)に伝言を申し述べたり自分の意見を述べる場合には、蹲踞(そんきょ)したり跪(ひざまづ)いて両手を地に付けて恭敬の意を示す。受け答えに『あい』と言うが、これは応諾を意味するようだ」という部分である。中国などに比べれば遥かに緩やかな身分制度ではあったが、一般人は身分の高い者に路を譲り、言上する場合には姿勢を低くして手を地につくのである。しかし、単に権力者によって強いられただけではないように感じられる。私には、自発的な謙譲の念を包含した表敬態度だったように思えてならない。父子男女の別なく酒を楽しむような大らかな倭人の性格から推し量ると、倭国の社会秩序が強権によって維持されていたとはとても思えない。慎み深く穏やかな人々の社会秩序は、権力者への恐怖や阿(おもねり)りではなく、各人の謙譲の念によって支えられていたと考えたい。

 上記以外の記述は割愛するが、上に示した記述からだけでも断言し得ることがあるように思う。それは、当時の日本人が原始的ながら規律正しい生活態度であったということである。「魏志」倭人伝が描く倭人の世界は、西暦3世紀の前半から中葉にかけてのそれであり、今から1,800年近くも昔のことなのである。儒教や仏教といった体系的に倫理観を育成する理論など無縁の時代だった。そのような素朴な社会が、何故か整然とした平和な世界であったことには驚くが、そのようなことは決して珍しいことではないようだ。日本の社会を形成する北方の少数民族の一つであるアイヌの社会が、社会進化論的には和人より低いレベルにはあったが、倫理的には極めて高度な社会であったことは、幕末の探検家の残した見聞録から知ることができる。このようなことはアイヌや古代の倭人に限ったことではなかったと考えられる。原始社会におけるヒトの社会が無秩序で倫理的レベルが低かったなら、厳しい自然環境下でひ弱な“毛のない猿”が群として生き延びることは不可能だったに違いないからである。古代中国において、漢の末に、人口が激減するほどの大乱を招いたのはヒトが無批判に“文明化”し過ぎたが故であったように思われる。倭の国は当時の中国ほどには“文明化”していなかった。「魏志」倭人伝が描く倭人が善良であった所以は、皮肉にも、当時の倭人が“非文明的”であったからなのかもしれない。
 何れにせよ、太古の日本人は善良で犯罪や争いごとが非常に少ない社会を形成していたのである。“日本の安全神話”は、“酔っ払い天国”や“長弓の下方持ち”と同じく、少なくとも1800年ほどの歴史を持っているということなのだ。こんな歴史ある伝統があっさりと覆されるなんてことは信じられないし信じたくもない。私たちが余程迂闊だったにせよ、満員電車の一輌に必ず複数の痴漢が乗っているほどに犯罪者を量産してしまったとは思いたくない。夢であって欲しいとすら思うが、教育を放棄したかのような学校の変質や、学ばず働かない若者の急増や、低年齢層による凶悪犯罪の頻発を目の当たりにすると、やはり事実だと認めない訳にはいかないであろう。
 しかし、このような状況下にあっても、私は尚“女性専用車輌”の存在を当然とすることに釈然としない。人を隔離することは決して稀ではない。伝染病患者は自由を拘束されて隔離病棟に収容される。禁固刑だの懲役刑というのは、早い話が刑務所への収監による犯罪者の隔離である。だが、ここで隔離されるのは他者の健康にとって好ましくない状況にある不幸な病人や社会に野放しにされるべきではないとされた犯罪者の側なのである。即ち、隔離というのは少数の“訳有り族”を閉じ込めることだと理解されているのである。この隔離される側と隔離する側が入れ替わるのは異常な事態だと言わなければならない。もしも、国民の大多数が危険な伝染病に罹患したなら、健康な者を安全な地域に隔離することになるだろう。その方が合理的ではあるが、どう考えてもこれは異常事態だ。例えば、アメリカの多くの都市のようにスラム街が巨大化すると、中間層や富裕層は安全な街に移住してその街を外部から防御するようになる。アメリカ人はこんな現状を当然のように思っているが、私たち日本人には極めて異常なことなのだ。
 “女性専用車輌”もこのスラム街が拡大した都市の富裕層あるいは中間層の住む街と似ている。一般車輌は巨大化したスラム街に相当するということになる。また、そのように考えるなら、スラム街を抱える都市における階層による住み分けが異常であるように“女性専用車輌”による女性の隔離は異常なのである。本来ならスラム街を解消しなければならないはずだ。貧民層を救済するプログラムこそが求められるべきなのである。私に痴漢行為に及ぶある種の男供を矯正する妙案があるわけではないが、女性を隔離することより、痴漢を減少させることこそが重要なのだと指摘することは許されるだろう。痴漢を減らす努力無しで安易に“女性専用車輌”を設置しその数を増やすことばかりを考える姿勢は理解できない。そのような小手先に頼る態度では事態を更に悪化させることになるだろう。
 街の美化が凶悪犯罪の発生を抑止したという話を聞いた。犯罪者の多くは軽犯罪に手を染めてから徐々により重い罪を犯すようになる。「嘘は泥棒の始まり」というのは古人の重い過ごしではない。タバコのポイ捨てや公共物等への落書きが重大犯罪への窓口となるのである。電車などの公共の場でしたい放題の子供とそれを放任する親を多く見かけるようになった。このような不心得物に当然のこととしてきついお灸を据える社会になったら痴漢も影を潜めることになると思う。私の空想が正しいかどうかは分からないが、兎に角、“女性専用車輌”が歪んだ常識になってしまう前に考えられる限りの意識変革策をためしてみてはどうだろうか。
 “女性専用車輌”にはもう一つ腑に落ちないことがある。スラム街から逃げ出し富裕層あるいは中間層が住む町に移住することは、その当人が貧民層でなければ文句なく受け入れられる。だが、“女性専用車輌”には女性しか逃げ込めない。電車の中での犯罪は痴漢だけではない。最近では、目が合ったというだけで凄まれたり、足を踏んだというだけで暴力沙汰になったりする。暴力沙汰の挙句に理不尽にも殺されてしまった青年がいたではないか。善良な男性乗客もいつ犯罪被害者になるか分からないのだ。何故、痴漢対策のみに血道を上げるのか理解に苦しむ。“女性専用車輌”が必要なら“善良な男性専用車輌”だって必要なのだ。善良か善良でないか判別が不可能だから“善良な男性専用車輌”の設定は非現実的だと馬鹿にされそうだが、よくよく考えてもらいたい、女性か男性かを見極めるのも困難だし、不可能だと言っても過言ではないと思えてくる筈だ。美しく女装した男性を本物の女性から見分けるのは難しい。そのうち、“筋金入りの痴漢”が女装法を研究する日がやってくるかもしれない。犯罪への消極的な対処は犯罪の巧妙化や別種の犯罪の増加をもたらすだけなのだ。

 さて、話の発端はサファリパークであった。私は野生動物を痴漢の群や貧民窟のギャング団といった犯罪者たちと同列に置いている訳ではない。そんな失礼な態度で野生動物に接するほど不見識ではないのだ。野生動物が人間にとって危険なのは、彼らにとって人間は自分たちを襲う敵あるいは自分たちが命を繋ぐために捕食する餌の一つに過ぎないからである。野生動物が人を襲うのは彼らの習性として当然のことなのである。その昔には、人間と野生動物の住み分けが極自然に行われていた。ところが、今やその住み分けが難しくなってきたようだ。日本でも、猿や熊や鹿や猪による農作物その他の被害が増加しつつあるように思える。世界中で野生動物の領域が狭められ分断されつつある。即ち、野生動物の多くが種の保存の危機に瀕しているということになる。
 そんな状況下にあっては、サファリパークのような施設にも積極的な意義を認めることができる。完全に“野生”を維持できる訳ではないが、野生動物の幾つかの種を絶滅から守る役割を果たすことになるであろうからである。とは言え、如何なる施設であれ、それなりの利益を得なければ維持し続けることは不可能だ。動物たちを見世物にすることも致し方ない。だが、それが単なる利益のみのための営業行為としてしか理解されないような有り様(ありよう)ならば、私は反発せざるを得ない。例えば、鉄格子バスから火箸で肉片を肉食獣に与えるような行為には抗議したい。池の鯉に餌をやったり、観光地で管理されている鹿に煎餅をやったりするのとは根本的に異なる行為なのだと知らなければならない。自然界で肉食獣が餌を得るのは非常に難しいことなのだ。“毛のない猿”が怖々火箸で差し出す肉に群がるような肉食獣は、もはや“本物の肉食獣”とは認められない。肉食獣の肉食獣たる“威厳”を尊重するなら、餌の与え方にも配慮が必要だろう。
 冒頭で、私は「好奇に満ちた動物の目に曝されるのは嫌なのだ」と言った。これは本音だが、既にお気付きかもしれないが、実のところは、もっと嫌なことがある。鉄格子に守られて、それでも、震え上がりながら、見物客たちは人間こそが最高に進化した霊長だと信じて、“下等な”野生動物を見下しながら見物しているのだ。私はそんな思い上がった“毛のない猿”を見るのが嫌なのだ。太古の倭人は、潜水漁を行うに当たって脅威となる鮫や海鳥を畏れそれらを封じるために刺青を施した。自分たちが自然界にあっては弱い存在だということをよく知っていたのである。だからこそ、自然界のあらゆるものに対して謙虚であった。自然の一部である自分たち人間自体をも畏敬したに違いない。それこそが謙譲の精神の基であり、社会秩序の根底にあるものだったように、私は思う。 今にして考えてみると、サファリパークから古代倭人の社会を連想したのは、私が謙虚さを失った現代人に失望しているからだったようだ。「サファリパークの猛獣たちが限られた環境下にあっても自然の一部として生ることが出来るようになりますように。“女性専用車輌”なんて奇妙な“檻”がなくなって誰もが安心して電車に乗ることが出来るようになりますように。そして、私の抱く現代人への失望が拭い去られる日が来ますように。」 改めて「魏志」倭人伝をひもときつつ、私は願わずにはいられない。

(2005年5月8日)


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タイムマシンがあったらなぁ<その4:鏡と案山子>

=初めに=
 妙な取り合わせの標題だと思えるかもしれないが、最後まで読めば、この取り合わせが決して珍妙ではないと納得できると思う。また、たとえ私の論に同調できないとしても、このような問題を考えることが、古代日本人の精神生活を理解しようとする努力の一環にあるということだけは、認めることができるであろうと期待している。

=鏡は影見(かげみ)?=
 考察の対象は、標題に掲げた鏡と案山子という二つの詞(ことば)の成り立ちと、両者に共通する“かが”という音の持つ意味である。先ずは“鏡”から始めよう。“かがみ”という詞について最もよく耳にする解釈は、“かげみ(影見)”の転訛だというものだ。 確かに、“げ”が“が”に訛ることは有り得ることだ。何故なら、“え”と“あ”は音声学上では非常に近接した母音で、“え”の唇の形のまま舌をやや後ろ下に移動させれば“あ”になるからである。“かげ(影)”の“げ”は万葉仮名の世界(古代日本語の音韻体系)では乙類に分類されるが、乙類の場合、その“え”は曖昧な“あ”音に近いもので、現代の“え”より舌が後ろに下がった音だったと推定されている。従って、この乙類の“え”の“あ”への変化はより起こり易いと考えられる。この説が広く認められている所以の一つである。しかし、私はこの説を初めて書物で読んだときから、「ほんまかいな?」と思っていた。
 私の心にどうしても無視できないほどの大きな疑問が湧き上がってきた理由は極めて単純だ。“影”というのは、単に陰影のことを指すのではなく、昔は、単純に光の明暗の異なる部分のことをいったらしい。従って、上代にあっては、他より明るい部分も“かげ”と呼んだのである。たとえ“影”という言葉の概念が現代と異なっていたとしても、わざわざ道具を使って見る“かげ(影)”が無意味な光の濃淡である筈はない。何らかの像を指すと考えるべきだろう。それも、後で議論する“光の動き”とは対照的に、“光の濃淡による静止画”といったイメージが直感的に浮かんでくる。即ち、“影見(かげみ)”というのは「光の濃淡によって形作られる何らかの意味がある像を見る道具」と解釈されるということになる。それを素直に理解すれば、「自分の姿を見る道具」のことに他ならないだろう。潜望鏡のプリズムや一眼レフカメラの鏡のように使わない限り、人が最も簡単に鏡を使って見ることができる意味のある像は己の姿だからである。
 さて、時代が下れば、鏡は人が自らの姿(即ち、“影”)を見る道具として機能したであろう。十世紀前葉に撰進された「和名抄」には、鏡のことを「照人面者也」と説明しているそうだ。従って、平将門の乱に見られるように、武士の台頭が著しくなり始めた十世紀頃には、現代のように、鏡はまさしく“かげみ(影見)”となっていたことが分かる。しかし、卑弥呼が「鬼道に事し、能く衆を惑は」していたような時代にも、はたして鏡は“かげみ(影見)”として使われていたのだろうか。鏡を“かがみ”と呼んでいたことを確認できるのは万葉集の歌までである。最も甘く見積もっても五世紀の初頭までしか遡れない。しかし、“影見”説が正しいとして、“かげみ”が“かがみ”に転訛するにはそれなりの長い年月を必要とするであろう。そのことも加味すると、遅くとも古墳時代前記から中期に移行する頃には、既に“かげみ(影見)”という詞が成立していなければなるまい。そんな大昔にも鏡は“かげみ(影見)”であったのだろうか。私の大きな疑問とは、実のところは、こういった素朴なものなのだ。
 「魏志」倭人伝によると、西暦238年に卑弥呼は魏に朝貢し、皇帝から様々の物とともに銅鏡100面を賜ったとされている。当時の日本人にとって、鏡は極めて珍貴なものだった。当然、当時の日本人には作ることができなかった。卑弥呼が君臨したとされる倭国という世界の中に、たったの100面、あるいはそれ以前に多少入手していたとしても、100面余りしかなかったものなのだ。こんな貴重なものを気軽に日用の「姿見」として使うとは思えない。卑弥呼たち支配者はそれらを最も有効な使途に用いなければならなかった。その使途とは、当時は各地で区区(まちまち)に執り行われていたであろう祭りの中心に据えて、国中の祭祀方法を統一することであったと思う。鏡という摩訶不思議な物体は、その道具として機能することに耐え得た。それほどに珍しく且つ神秘的であったのだ。卑弥呼から鏡を与えられた各地の有力者たちは、その神秘的な鏡を畏れるに止まらず、それを与えてくれた卑弥呼をも大いに畏れた。大和朝廷という統一国家の成立の前提として、このような背景があったのではないかと推察される。従って、鏡は日用品ではなく、神そのものに匹敵する畏れ多い“神の器”だったと考えなければならないのだ。
 たとえ、当時の権力者が私の推理通りに鏡を利用したのではないにせよ、鏡が神に匹敵するものとして取り扱われたことだけは間違いないはずだ。巫女形埴輪の腰にははっきりと鏡(鈴鏡と呼ばれるタイプのもの)だと分かるものが取り付けてある。巫女が手鏡として持ち歩いていたのではないことは明らかで、鏡が神を呼び神と遊ぶ特別な人のみが触れることを許された神宝であったことを示していると考えなければならない。また、「日本書紀」の崇神紀には、出雲振根(いづものふるね)誅殺後しばらくのあいだ出雲の神が祀られなくなったとし、そのことについて子供の口を借りて神が託宣を下したことが記されている。その託宣の言葉の中に「玉藻の鎮石(しづし) 出雲人の祭る 真種の甘美(うま)し鏡 押し羽振る 甘美(うま)し御神」とある。「(行方不明の)出雲人が祀る鏡、偉大な神は水底にある」と言っているように理解できるのだが、注目すべきは、鏡が神の威光そのものだと明言していることである。たとえ権力者であっても、神と自由に交信することができない普通の人間が、神そのものに匹敵する鏡を気安く手にすることなど有り得ない。鏡が「姿見」という日用品として使われることなどなかったはずだ。私には“かがみ(鏡)”が“影見”として使われることがない時期に“かげみ”と呼ばれたとは到底考えられないのだ。

=鏡はカガ霊(かがみ)=
 私は“かがみ(鏡)”という詞(ことば)をもっと単純に解釈したい。“かがみ(鏡)”とは“かがみ(かが霊)”のことだと思うのだ。“かがみ(鏡)”の“み”は万葉仮名の世界でいう甲類であり、“霊(み)”もまた甲類に属する(ついでながら、“影見”の“見(み)”も当然のこと甲類である。) “かがみ(鏡)”が “かがみ(かが霊)”である可能性を安直には否定できないということになる。ということなので考察を先に進めるが、“み(霊)”というのは、神性を有する何物かの精とか霊のことである。“山神(やまつみ)”とか“海神(わたつみ)”といった例からは、“み(霊)”という概念は「高度に抽象化された畏敬の対象」であるように感じられる。私の受けた印象の是非はともかく、“かがみ(鏡)”は神秘性を帯びた何物かの精あるいは霊に違いない。しかし、“かが”の“霊”では何のことやら訳が分からない。その“かが”とは何なのかを明らかにしなければ話は進まない。以下、その“かが”という音について考察を進める。
 “かが”という響きで先ず思い浮かべるのは“かがよふ(燿ふ)”と“かかやく(Rく)”というよく似た二つの詞(ことば)であろう。“かかなく(嚇く/かか鳴く)”とか“かかのむ(かか呑む)”という詞もあるが、この“かか”がけたたましい鳥の鳴き声や水をガブガブ飲む音を擬したものであることは明らかなので、これについて深く考える価値はなさそうだ。強いて指摘するなら、“かか”が際立った音であることから、古代人はその“かか”という響に“際立った”という抽象的な意味合いを感じていたかもしれないと推察されることと、そのような感覚が際立った光の変化に関する言葉である“かがよふ(燿ふ)”とか“かかやく(Rく)”に通じる可能性もあるという点ぐらいであろう。それはそれとして、ここでは“かがよふ(燿ふ)”と “かかやく(Rく)”の意味するところに集中して考察することにしよう。“かがよふ(燿ふ)”は光が揺らめき動くことであり、“かかやく(Rく)”は鋭い光がきらめくことだから、両者の意味合いは少々異なる。だが、光が動いて際立って見えることに変わりはない。これらが類語だと言っても間違えではあるまいし、音声学の立場からは、“かが”と“かか”が混同され得ると認めなければならないであろう。現に、現代語では“かかやく”という言葉も“かがよう”という言葉も使われなくなって、“かがやく(輝く)”が強い光がキラキラすることを表している。そこで、ここでは“かか”と“かが”を共通のバックグラウンドを持った音として一括して取り扱うことにしたい。
 “かが”あるいは“かか”が光の動きに関係していることは、これらが“かがみ(鏡)”という詞の元になったと考えるに充分な根拠となる。鏡は、それを持つ巫女の踊るような動きによって、あるときは“かがよひ(燿ひ)”、またある時は“かかやいた(Rいた)”ことであろう。私たちは錆びて緑青を噴いた青銅鏡しか知らないが、錆も無く磨き上げられた上に水銀でコーティングされた青銅鏡はまさしく現代の鏡と同じようにピカピカであった。篝火(かがりび)や太陽の光を反射して“かがよひ(燿ひ)”あるいは“かかやいた(Rいた)”のである。古代人が、鏡が変幻自在に反射する光りの輝きに神秘の力を感じ、そこから導き出された神格を“かがみ(かが霊)”と呼んだことは充分に考えられることだと思う。先ずは、“かが”あるいは“かか”が「光の神秘」を表す音だとすることに異論はないと思う。
 だが、それだけでは終わらない。“かがみ(かが霊)”の“かが”は、更に概念を広げて捉えることができると考える。「日本書紀」が天磐戸(あまのいわと)神話の異伝として語る話の中に、「アマテラスオオミカミの姿を象(かたど)った“日矛(ひぼこ)”を作らせた」という表現が見られる。記紀の世界でアマテラスオオミカミの姿を象るということは、とりもなおさず太陽を模するということであり、それは鏡のことだと理解される。更に、「先代旧事本紀」にも同様の伝承が記載されているが、ここでは「“日矛(ひのほこ)”とは鏡のことだ」と明言している。鏡を“日矛(ひぼこ/ひのほこ)”と表現しているのは実に興味深い。「日本書紀」の別の異伝や「古語拾遺」では、アメノウズメノミコトが矛を持って俳優(わざをき:神や人を宥めたり喜ばせるために行う滑稽な所作)をなしたと記されているが、これは、上代以前の祭祀では鏡のみならず矛が打ち振られたこともあったことを物語っている。このような考えは、祭祀用具と目される幅広の銅矛が九州を中心に発掘されていることからも裏付けられるのだが、ここで重要なのは、古代人にとって、祭における銅矛と銅鏡は同じものとして理解し得たであろうということである。銅鏡は銅矛に取って代わり得るものであった。而して、それは、同じ“金属”としての神秘性が、形状や機能の異なる両者を結びつけているからだと考えられる。“かがみ(かが霊)”の“かが”が、「光の神秘性」のみならず「金属の神秘性」をも表すと思われていたに違いないのだ。“かが”は、光の動きに加えてその光を発する金属の神秘性をも指すと考えてよいだろう。

=案山子は嗅ガシ(かがし)?=
 ここで、“かが”あるいは“かか”という音が持つ意味を更に深く考察していくために、鏡の話を一時中断して、“かがし(鹿驚/案山子)”の話に移りたい。“かがし(鹿驚/案山子)”は“かかし”とも言うが、これは東(あずま)方言で、本来は“嗅がし”からきた“かがし”だとされている。“嗅がし”というのは、害鳥や害獣を避けるために、獣肉などを串に刺して焼いたものを田畑に突き刺したものだという。焼串(やいぐし)などとも言うらしい。鏡の解釈に引き続いて学者の見解に楯突くようで恐縮だが、私はこの説にも納得できないのだ。“かがし(案山子)”についても別の説を提出したいと思う。その前に、“鹿驚(かがし)”という表記についてだが、“鹿驚(かがし)”は“ししおどし(鹿威し)”そのものであって私が議論したい“かがし(案山子)”のみのことではない。焼串(やいぐし)は勿論のこと、鳴子や添水(そふづ:竹筒に水を引き入れて自動的に鳴らせる装置)など全ての害鳥・害獣避けの装置の総称が“ししおどし(鹿威し)”なのである。従って、混乱を避けるために、この議論においては “かがし(案山子)”のみが対象にされていることを強調しておかなければならない。私は、この“かがし(案山子)”を“かがし(嗅がし)”の意だとすることに納得できないということなのである。
 “案山子”は“かがし”と読むだけでなく“そほど”とも読む。ソホドは「古事記」に出てくる神名で、オオクニヌシノミコトともに国造りに携わったとされるスクナビコナノカミの登場場面に出てくる。珍妙な態(なり)をして奇妙な舟に乗った小さな神が現れたが、オオクニヌシ自身は勿論のこと、お供の神々の中にもその客神を知る者はいなかった。そこでタニグク(蟇蛙の神格だと考えられている)がクエビコという神なら知っているだろうと推薦に及んだ。果たして、召されたクエビコは「こはカムムスビノカミの御子スクナビコナノカミなり」と即答したという。「古事記」のこの部分の最後にクエビコのことが説明してあるのだが、それは「いはゆるクエビコは、今には山田のソホドといふものなり。この神は、足は行(ある)かねども、天の下の事を尽(ことごと)に知れる神なり」というものである。この解説に見られる“ソホドの神”の特徴を箇条書きにすると、@山田にいる、A歩けない、B世界中のことを知っている、ということになる。而して、何ら疑われることなく、この“ソホド”とは弓矢を持って「へのへのもへじ」の顔をした“かがし”のことだとされているのである。
 ところで、この物知りの“クエビコ”とは“崩え彦”であると解釈されている。“崩(く)ゆ”という動詞は「形がなくなって崩れ落ちる」ことを言うから、Aの歩けないという条件にぴったり符合する。私にも否やは無い。他方、“ソホド”については、“そほつ(濡つ)”からきているのではないかとされている。山田の中にじっとしている人形なのだから、雨に打たれて朽ちてしまったという解釈で、“クエビコ”という名前ともマッチしているようにも思える。だが、私は“そほつ(濡つ)”説には賛成し兼ねる。理由は簡単で、それでは“かがし(案山子)”を“クエビコ”や“ソホド”が並ぶ同一線上では説明できないからである。“かがし(嗅がし)”という概念が“崩ゆ”や“そほつ(濡つ)”に馴染まないことに説明は不要だろう。かといって、他の“かがし”の解釈は提出されていない。また、「“ししおどし(鹿威し)”としての“かがし(嗅がし)”とそれとは別系統の“そほど(案山子)”・“くえびこ”が、理由は分からないが、付会されてしまった」などという安易な説明も受け入れたくはない。もっと筋の通った説明があるように思うからだ。

=ソホドはカガ霊(かがち)、転じてカガシ(案山子)=
 私は“かがし(案山子)”は“かがち(かが霊)”の転訛ではないかと考えている。上代の“ち”は現代の“てぃ”という歯音であり、上代の“し”は現代の“ち”に近い口蓋音(破擦音)だったと推定されている。“てぃ”と“ち”の交替が容易に起こるであろうことは誰しも認めるであろう。ここで、先ほどの“かがみ(鏡)”=“かがみ(かが霊)”の話を思い出していただきたい。“かが”は「光の神秘」であるとともに「金属の神秘」であった。従って、“かがち(かが霊)”も光もしくは金属に関係する何らかのものの神格化されたものということになる。ところで、“ち(霊)”も“み(霊)”も似たようなものだが、本来は異なる系統の言葉であり、従って、意味合いも多少は異なっていたのだと思う。何故なら、後に“霊”という漢字が当てられた神秘的なものを表す言葉には“み”、“ち”の他に、“ひ”や“たま”というのがあり、単一の源から生じたとするにはその数が多過ぎるからである。その点は主題と直接は関係しないので本論では深く追求しないでおくが、“かがち(かが霊)”と“かがみ(かが霊)”にも何らかの合理的な違いがあったであろうと捉えておくことには意味がある。そうでないと、同じ“かが”に“ち”と“み”という似たような詞をくっつけて二つの別意の詞を作り出す必要がないからだ。この点については、最後に言及する。
 “かがち(かが霊)”の説明に当たっては、先ず、“クエビコ”と“ソホド”と“かがち(かが霊)”が転じた“かがし(案山子)”の三者が共通の土台の上で解釈できることを説明しなければならないだろう。既に態度表明しておいたように、“クエビコ”については“崩え彦”という定説に賛同する。この名が歩けなかったことの説明にもなることにも大賛成である。しかし、その理由付けは全く異なる。それは、“ソホド”の解釈が違うからである。野晒しにされて身体が崩れ落ちたから脚萎えになったというのは子供騙しの感を拭えない。私は“そほど”は“そほど(朱處)”のことだと考える。“そほ(朱)”は赤土を指す“そほに”のことでもあるが、より重用されたのは辰砂から採った“まそほ”のことである。従って、“そほど(朱處)”とは辰砂鉱山のことであり、“ソホドの神”は辰砂鉱山で辰砂を採掘し丹(朱)や水銀の抽出に従事した技術者を神格化したものだと解釈する。
 このような推定は聞いたことがないので、その妥当性については慎重に吟味しなければならない。“ソホド(曽富騰)”の“そ”も“そほ(朱)”の“そ”もともに乙類で音は一致する。ところが、“ソホド(曽富騰)”の“ド(騰)”は乙類であって、甲類である“と/ど(處)”とは一致しない。しかし、古代語を分析する際、この甲乙の別は常に重要な要素として論ぜられるが、同時に、絶対的な要素だとはされていないことに留意しなければならない。言語の世界には「中和」とか「同化」といった現象が観察されているからである。「中和」とは本来は対立的であった音(お互いに異なっていると認識されている音)が特定の条件化においてのみその区別が失われる現象をいう。また、「同化」というのは、ある音がその前後の音の素性を受け継ぐことによって変化を遂げる現象であり、世界中の全ての言語でその存在が確認されている。古代日本語も例外ではないはずだ。条件が整えば甲類が乙類に転換されることが有り得るということなのだ。実際に、そのような現象が起こっているという指摘も専門家によってなされている。“ソホド”の“ど”もそのような例の一つであれば、“ソホド(案山子)”=“そほど(朱處)”という等式も成り立つ可能性があるということになるだろう。
 そこで、古代日本語で何らかの原因で音が変化したのではないかとされている例を探してみた。すると、まさに私が思案していた“ど/と(處)”についての実例が見つかった。それは“女陰”を意味する“ほと(陰)”という詞である。この“ほと(陰)”とは“ふほと(含處)”が転じたものという説や“ほと(火處)”なのだとする説が有力視されている。しかし、“ほと(陰)”の“と”は甲類ではなく乙類なのだ。これらの説が正しいとするなら、“と/ど(處)”という本来は甲類である音が“ほと(含處/火處)”という複合語の中では乙類に変化したということになる。しかも、この変化は議論の的である“ソホド”と同じく“ほ”という音の後ろという環境で観察されているのである。余りに専門的で、この音韻変化を平易に説明することは困難だが、私にとっては極めて嬉しいというか歓迎すべき学説ではある。我が“ソホド”の場合、“ほど”の前に更に“そ”という音がついてはいるが、“ソホド(案山子)”=“そほど(朱處)”という発想が受け入れられる余地があることだけは間違いないからである。
 そいうことで、“ソホド”が“そほど(朱處)”だという前提で話を進めるが、もしこれが私の想像通りなら、そのソホドの神が脚萎えであっても全然おかしくはないのである。水銀鉱山で鉱毒に犯されて運動神経がダメージを受けることは充分に考えられることだからだ。事実、以前に指摘したように(「タイムマシンがあったらなぁ <その1:カモ氏>」、2004年8月16日)、古伝承にはヤマトタケルノミコトやアヂスキタカヒコネノミコトやホムツワケノミコトのように鉱毒による身体障害を描いたと思われる話が数多く見られる。“クエビコ”、即ち“ソホドの神”が歩けないのは、野晒しで身体が崩れたからではない。鉱毒で脚萎えになってしまったからだと考えることができるのである。
 さて、いよいよ“かがし(案山子)”の出番である。先ほど、“かがし”は“かがち(かが霊)”の転訛だろうと言った。また、“かが”は「光の神秘」であるとともに「金属の神秘」でもあることを論じた。“ソホドの神”が金属技術者に与えられた神格であるなら、それが“かが霊(かがち)”と呼ばれ得ることは容易に理解できる。“ソホドの神”はまた“かがち(かが霊)”とも呼ばれ、それが転訛して“かがし(案山子)”と呼ばれるようになったのである。このように考えると、“クエビコ”と“ソホド”と“かがし”の三者を「金属」という一本の筋で貫くことができるということなのだ。それに、この考え方だと、「古事記」が語る“クエビコ”即ち“ソホドの神”の属性の全てが矛盾なく受け入れられる。@の“ソホドの神”が山田にいることも当然のことと言える。通常、鉱山は山深いところにある。そこで働く人々が一般人に目撃されるのが里と山の中間点であることは極めて自然なことで、山田は一般人(農夫)が暮らす最も山に近い区域にあるものなのだ。“かがち(かが霊)”たる“ソホドの神”が「山田に居た」とする目撃談が流布しても全く不思議はないのである。
 Aの「歩けない」ことについては既に説明済みだから、最後のBの「物知り」という点に関して考えよう。鉱山の発見や鉱石の採掘、更に、金属の精錬や冶金といった金属に関する事柄は、古代社会にあっては、現代の素粒子論と同じ程度の最先端の知識であり技術であったと想像できる。古代の金属技術者は超一流の知識人として認知され、且つ遇されていたと思われるのだ。たとえ脚萎えであっても、絶大な敬意を払われたことであろう。紛れも無い神業を成しているのだから、実際には、まさしく鬼神の如くに畏れられたことであろう。もっと気楽に考えるなら、古事記の記事のように「分からないことがあったら“ソホド”=“クエビコ”に訊け」という合言葉があったかもしれないとすら思う。落語に出てくる横丁のご隠居さんほど気安い相手ではなかっただろうが、喩えとしては分かりよいと思う。“ソホドの神”は、与太郎や熊さん・八っつぁんから見た横丁のご隠居さんのような、庶民には雲の上の存在に思えるほどの知識人として扱われたに違いないのだ。
 ここでの私の議論について「あれっ?」と首を捻る方がいらっしゃるかもしれない。“クエビコ”=“ソホドの神”=“かがち(かが霊)”=“かがし(案山子)”であって、その基底部に「金属」があるとする説からは、弓矢を持って「へのへのもへじ」の顔をした鳥や獣を田畑から追い払う“かがし”の姿が見えてこないとの疑問が聞こえてきそうなのだ。この点について、私は極めて単純に考えたい。揚げ足を取るわけではないが、“ソホドの神”の三つの属性の中に「田畑を守る」という条項は入っていない。本来の“ソホドの神”は飽くまで金属技術者の神格であって田畑の守護神ではないのだ。従って、“ソホドの神”たる“かがし(案山子)”には、本来、“ししおどし(鹿威し)”という属性はなかったのである。“かがち(かが霊)”と“かがし(嗅がし)”の音の類似に加えて「山田のソホド」と「山田の嗅がし」という似たような表現にのために、“ソホド”たる“かがし”は「山田の“嗅がし(鹿驚)”」と聚合されてしまったのだと考える。
 私の説に懐疑的な読者からは、更に、「採掘や精錬が簡単である辰砂(あるいは、液体である水銀)を銅や鉄と同じ金属と考えることはできない」との指摘もあるかと思う。だが、水銀が金・銀などとアマルガムを形成すること及び比較的低温で蒸散することを利用して鍍金(メッキ)に用いられるからこそ珍重されたことを考えるなら、その指摘が的外れであることは容易に理解されよう。辰砂(水銀)を扱う技術は、銅や鉄を取り扱う技術と同一視され得るのである。更に、銅や鉄の産地は左程には多くないが、辰砂の産地は極めて多い。このことは、辰砂の産地を表す“丹生”という地名が全国に40以上認められることからも実証できる。全国的に認知され得る金属技術者の神格たる“ソホドの神”が辰砂鉱山の神であっても何ら奇妙な点は感じられない。

=カガチとヤマカガシとホオズキ(酸漿/鬼灯)=
 もう暫く“かがし”の話を続けたい。“かがし”という響きから即座に思い浮かべるのは“やまかがし”という毒蛇だろう。奥歯が毒牙なので被害が少なく、毒蛇だと認知していない人もいるらしいが、時にはこの蛇によって命を奪われる人もいる。“やまかがし”という名称はいかにも怪しげだが、この“かがし”も“かがち”の訛りだと考えられる。辞書には「“かがち”とは蛇の別名であり、ホオズキ(酸漿)の古名でもある」と書いてある。“かがち”が“蛇”のことだというのは、平安時代の辞書である「新撰字鏡」や「和名抄」によって裏付けられる。それらには“やまかがち”というのが出ていて、“大蛇”のことだと説明されているからである。この“やまかがち”が現代の“やまかがし”に直結しているかどうかは判然とはしないが、“やまかがし”の“かがし”が“蛇”を表す“かがち”の転訛だと考えることに大きな抵抗は無いということである。
 “ホオズキ(酸漿)”については後で触れるとして、先ずは“かがち”=“蛇”ということについて論じよう。古代日本人は色んなものに神格を与えて八百万の神々を創出した。それらの中には、明らかに近縁性あるいは同一性を認められたものが存在する。定説となっているのでその根拠は省くが、“雷”=“剣/刀”や“雷”=“火”、あるいは“剣/刀”=“蛇”といった等式がある。更に、“雷”=“蛇”という等式も成立するようだ。「日本書紀」の雄略紀には小子部スガル(ちひさこべのすがる)という近習が天皇の命によって大蛇(三諸の神)を捕らえたという話が載っている。その蛇神の様子は、「その雷ひかりひろめきて、目精(まなこ)かかやく」であったそうだ。また、この条の最後には「仍(よ)りて改めて名を賜ひて雷(いかづち)とす」ともある。解釈は研究者によって異なるが、この蛇神は、「日本書紀」の世界に限っても、雷とイメージが重なっているように思われる。一方、全く同じネタに拠ると思われる話が、「日本書紀」より100年ほど遅れた9世紀初頭にまとめられた「日本霊異記」にもあり、これではスガル(「日本霊異記」では“栖軽”と表記されている)がはっきりと雷を捕まえた物語になっている。「日本霊異記」の別の話では、天から落ちた雷を助けた農夫がその返礼として子供を授けられたが、その雷の申し子は頭に蛇を二巻きした姿で生まれたとしている。これらのことから、古代日本人は“雷”と“蛇”を混同または同一視するような何らかの発想要素を持っていたと理解しなければならない。
 余談だが、先の話で雷(あるいは、大蛇)を捕まえた勇者である小子部スガルについて少しばかり述べておきたい。小子部(ちひさこべ)という氏族だが、「新撰姓氏録」には左京皇別上の小子部宿禰と和泉国皇別の小子部連が出ていて、何れも神武天皇の皇子である神八井耳命(かむやつゐみみのみこと)の子孫だとされている。同祖の氏族には「古事記」を書いたとされる太安万侶もその一員である多氏があり、その辺りから考えても、渡来系の氏族であるらしい。小子部スガルは一貫して雄略天皇のそば近くに仕えたが、あるとき、国内の蚕(こ)を集めるように命ぜられた。ところが、スガルは誤解して、国中から嬰児(わかご)を連れて来てしまった。天皇は大いに笑って、その子供たちをスガル自身が育てるよう申し付けたという。これが“小子部(ちひさこべ)”という名の由来だとされているが、実際には、内裏で天皇や皇后に奉仕する童子たちの養育費を担当する品部(しなべ)の頭目だったらしい。また、小子部氏は雷を封じる呪術に長けていたとも言われている。そのために、雷を捕らえるという話の主人公にもされた訳である。
 ところで、この“すがる”だが、これはジガバチのことであり、「日本書紀」ではそのジガバチを意味する漢字そのままで表記されている。「万葉集」には、「・・・胸別けの 広き吾妹 腰細の すがる娘子(をとめ)の その姿(さま)の 端正(きらきら)しきに 花のごと・・・」とか「・・・飛びかける すがるのごとき 腰細に取り餝(かざ)らひ まそ鏡・・・」といった、古代人がジガバチから乙女の腰細を連想したらしいことを物語る歌が見られる。これでは、雷を天皇の前に引き据えた豪傑の名前としては似つかわしくないように思える。だが、「日本霊位異記」によると、小子部栖軽は、「緋(あけ)の鬘(かづら)を額(ぬか)に著け、赤き幡桙をささげて」馬に乗って雷の捕縛に向ったとある。雷あるいは雷封じの呪術者には赤色が付き物なので、このように描かれただけなのかもしれない。しかし、別の解釈も成り立つ。「緋(あけ)の鬘(かづら)」は、ジガバチの黒い体にくっきりと浮かぶ腹節にある赤い輪状の模様を連想させないだろうか。また、ジガバチには芋虫の類を捕まえて地下の巣穴に持ち込む習性がある。狩の名手なのである。古代の人々は、こんなジガバチの姿や習性を熟知していたからこそ、雷を捕らえた小子部連栖軽(ちいさこべのむらじすがる)という豪傑の名前を考え付いたのかもしれないとも考えられるのである(学者によっては、ジガバチが芋虫で自分の幼虫を養うことから、内裏で働く童子たちの養育費を担当する品部の頭目の名に選ばれたとしている。)
 閑話休題。このような古代人の認識を総合すると、“雷”=“剣/刀”=“火”=“蛇”という等式が成り立つ。勿論、純粋に数学的な等式ではない。古代日本人は「これらの事物の根本に共通の血脈が流れている」という感覚的な理解を持っていたというだけに過ぎない。更に、本論で扱った“光の動き”=“金属のきらめき”や“火”=“光”、“火”=“精錬/冶金”あるいは“鏡/剣/刀/矛”=“金属”といった常識的な認識を合わせて考えれば、 “雷”=“光”=“剣/刀/矛”=“鏡” =“金属”=“火”=“蛇”=“雷”・・・という環状の等式が成立するように思える。そのように考えれば、金属の神格である“かがち(かが霊)”が“蛇”と同一視されるとしても不信感に囚われることはない。古代人の感覚を前提とするなら、蛇を“かがち”と呼ぶことに何ら抵抗はないのである。
 そうなると、ホオズキ(酸漿/鬼灯)の古名が“かがち”であることが奇妙に思えてくるかもしれない。ナス科の植物であるホオズキが、金属の神格の名称であり蛇の異称でもある“かがち”と同じなのは何故なのだろう。その答は極めて単純なものだと思う。私は主として生物学を学んだ者として断言するが、植物が動物あるいは動物の体の一部の名称で呼ばれるのは、単純に、その植物の全体あるいは部分が形態的にその名称となったものに酷似しているからである。山歩きをしていてギョッとする植物に出くわすことがある。マムシグサというサトイモ科の植物の花茎だが、膨らんだ仏焔苞(ぶつえんほう:花を包んでいるもの)とそれを支えている茎がまるでマムシのように見える。また、春先、何処にでも見られる雑草にイヌノフグリや少し大型のオオイヌノフグリというのがある。小さくて青い可憐な花を咲かせるから、誰でも目にしたことがあると思う。この植物の名称はその種子が雄犬の睾丸のような形状であることに由来している。
 マムシグサやイヌノフグリと同様に、古代においてホオズキを“かがち”(蛇)と呼んだのもその何処かの形態が蛇に似ているからだと考えられる。そのつもりで観察すると、ホオズキの液果を覆う宿存萼(しゅくそんがく)が、未熟な時にはアオダイショウの頭のように見えることに気付く。蛇など毛嫌いする(あるいは逆にペットにする)だけの現代人ならいざ知らず、蛇に雷や刀や金属とイメージが重なる特別な神秘性を感じていた古代人ならホオズキを蛇に見立てるであろうと考えることには充分な根拠があると思う。また、だからこそ、八岐大蛇の目を「あかかがち(赤酸漿)のようだ」と評したに違いない。ホオズキを蛇に見立てていなければ、連山ほどに長大な蛇の目を、熟れて燃えるように赤くなったとはいえ、ちっぽけで見ようによっては可憐なホオズキの実に喩えるとはとても思えない。因みに、“鬼灯(ほおずき)”という表記は不気味だが、これは熟れて赤くなり提灯のようだという気持ちから、“人間界のものではない提灯”という意味で当てられた文字であろう。ホオズキそのものを不気味なものとして捉えていた訳ではないと考えるべきだと考える。
 “かがち(かが霊)”という詞(ことば)は、古代人に特有の“雷”=“光”=“剣/刀/矛”=“鏡” =“金属”=“火”=“蛇”=“雷”・・・という等式(感覚)によって、文字通りの“金属の神”と“蛇”と“ホオズキ”の三つの意味を持つようになってしまった。蛇の中でもヤマカガシにのみに“かがち(かが霊)”の名称が残ったのは、その生態によると思われる。ヤマカガシは水辺を好む蛇なので、その存在が目立つのは水田の近くなのである。マムシは石垣やススキ野にいるし、青大将は手頃な獲物である鼠を狙うからか人家に棲み着く。湧き水を引き込んだ山田にもヤマカガシは棲んでいただろうし、山田の近くには“ソホドの神”たる“かがち(かが霊)”、即ち、身体に障害を持った金属技術者が出没していた。金属の神である“ソホドの神”の活動範囲に生息するヤマカガシに“ソホドの神”と同じ名称である“かがち(かが霊)”という呼び名が特に緊密に結びついたことは容易に想像できる。
 穿ち過ぎかもしれないが、“ソホドの神”たる“かがち(かが霊)”を神格化されていない動物としての蛇そのものと区別するために、“かがち”をわざわざ“かがし”と訛らせたのかもしれない。“し”には人を表す“子”や専門家を言う“師”があり、古代語にも“くすし/くすりし(薬師)”や“はじ/はにし(土師)”といった用例があるから、あながち見当外れということではないかもしれない。一方、ホオズキは植物なので、現代においてマムシグサやイヌノフグリがそうであるように、蛇を表す“かがち”という言葉そのままでも抵抗なく受け入れられたのだろう。穿ち過ぎの感がある私の想像は置いておいても、古代のゆっくりとした時の流れが、“かがち(かが霊)”という詞(ことば)から“山田の案山子”と“ヤマカガシ”と後にはホオズキと呼ばれる“カガチ”という三つの詞を作り出したと考えることに大きな抵抗はないと思う。
 “子”という詞が出て来たついでに、牽強付会との謗りがあることを覚悟した上で、一つの仮説を提示したい。“あんざんし(案山子)”という表記だが、音読みであれ訓読みであれ、これを“かがし”あるいは“かかし”と読ませることには無理がある。かと言って既成の熟語の借用でもない。“案山子”は“かがし”以外の何物をも意味しないからである。そうなると、“案山子”は“かがし”の属性を漢字で表現したものであると考えるしかない。諸橋辞典に拠ると、十一世紀初頭に宋の禅僧道原が著した「景徳伝灯録」という書物には、“案山子”という熟語が見られるそうで(現代中国語には見当たらない)、「面前案山子、也不会」という一節が引用してある。無教養な私には難しい漢文だが、“也”を通常の“亦”の意味だと考えれば、「目の前の案山子に、気付きもしない」ということだろうし、“也”を“他”の音符とみれば、「目の前の案山子に、その人は気付かない(誰も気付かない)」という意味にもとれる。だが、どのように読もうが、これだけでは、この“案山子”が“ししおどし(鹿威し)”としての“かがし”のことだとは断定できない。諸橋辞典は、“案山”とは“山田が拓かれた机のように平たい山”のことだと説明している。しかし、これが正当な解釈であっても、“案山子”は“山田に居る人あるいは在る物”という意味にしかならない。更に、私には、“案山”が“山田が拓かれた机のように平たい山”だとは考えられない。“案”という字は座卓様の“机”を表すが、動詞としては“考える/調べる”という意味と“安んずる”という意味がある。然らば、“案山子”は「山を調査する人」とか「山(または、山の神)を鎮めるもの」と読める。何れにせよ、“案山子”というものが田畑に関係したものだとは考えられない。むしろ、田畑とは無関係な山のみがイメージされる。“案山子”という文字列は“ししおどし(鹿威し)”としての“かがし”に当てはめたのではなく、山の神である金属技術者たる“かがち(かが霊)”、またはそのような山の霊格が暴走して荒ぶる神とならぬよう慰撫する鎮守(“かがち(かが霊)”の和魂だと考えることも可能であろう)に当てたものだと解釈した方が納得できるのではあるまいか。諸橋辞典が引用している「景徳伝灯録」を手に入れてしっかり研究すると、己の浅はかさにがっかりすることになるかもしれないが、現在のところは取り敢えず、このような解釈も有り得ると思っておきたい。

=カグツチとカグヤ姫と伊香(いかご)の天女=
 ここで再び、話を出発点である鏡へと転じよう。“かがみ(鏡)”の“かが”と関係ありそうな類音として“かぐ”というのがある。話の流れとして、先ず、思い浮かぶのはイザナミのミコトが最後に生んだ火の神“ホノカグツチノカミ(火の迦具土の神)”の“かぐ”であろう。イザナミを焼き殺したために、それを怒ったイザナギに切り殺されてしまった神である。古事記によると、その血からも多数の神々が生まれたが、その中に“タケミカヅチノヲノカミ” (雷の神)が含まれている点が注目される。しかも、この神の別名は“タケフツノカミ”あるいは“トヨフツノカミ”であり、いずれにせよ刀の神なのである。“雷”=“刀”という等式が成立していたことを示す事実の一つである。また、カグツチはそもそもが火の神なのだから、“火”=“雷”=“刀”とも言える。また、カグツチに焼かれたために病んだイザナミが吐き出した吐しゃ物からは“カナヤマビコノカミ”と“カナヤマビメ”が生まれている。何れも、その名の通り、鉱山の神である。この神はイザナギが吐いたものから生まれたが、その嘔吐の原因はカグツチにある。従って、カグツチが生み出したに等しい。この点を加味すると、“火”=“雷”=“刀”=“金属”となる。切りがないので、ここで止めるが、ここまでの話だけでも、“カグツチ(迦具土)”=“かぐ・つ・ち(霊)”だと分かるし、この“かぐ”が火や金属などを示していることは明らかである(“つ”は“〜の”という意味の助詞である。)
 更に、“かぐ”と聞けば、“あめのかぐやま(天香山)”とか“迦具夜比売(かぐやひめ)”の“かぐ”にも直ちに思い当たる。天磐戸(あまのいわと)伝承でアマテラスオオミカミを誘い出す祭りのために、色んな祭具が用意された。その中に、先に触れた通り、“日矛”と呼ばれることもある銅鏡がある。そのための材料である銅の出所については複数の言い伝えがあるようだ。「古事記」では“天の金山(あめのかなやま)の銑(まがね)”と言っているが、「日本書紀」の一書(あるふみ)や「古語拾遺」では“天香山(あめのかぐやま)の銅(あかがね/かね)”と言い、「先代旧事本紀」は“天金山(あめのかなやま)の銅”と“天香山(あめのかぐやま)の銅”で二つの鏡を作ったとしている。“金山(かなやま)”は明らかに地名としての固有名詞ではなく一般名称としての銅山を表していると考えるべきである。一方、“天香山”についてはちょっとばかりややこしい。奈良にはかの有名な香具山(かぐやま)という山が実際に存在するからである。
 しかし、古文献を落ち着いて読み込んでみると、そこに見える“天香山(あめのかぐやま)”も“天金山(あめのかなやま)”と同じく一般名称であるように読めてくる。多くの学者もそのように理解しているようだ。そうなると、“香(かぐ)”と“金(かな)”は同じもの、即ち、この場合には銅を指していると理解しなければならない。音の類似による直感が示す通りに、“天香山(あめのかぐやま)”の“かぐ”は“かがみ(かが霊/鏡)”の“かが”と同根だということになるのだ。ちょっと話が広がり過ぎるかもしれないが、古代には、豊前(北九州)の香春岳(かはらだけ)に銅山があったことが知られている。そこには香春神社(かはらじんじゃ)があり、この神社の元宮は採銅所内にあるのだそうだ。しかも、この銅山の麓には鏡造りの工人集団がいてこの香春岳を鏡山といて崇めていたという。“香(か/かご/かぐ)”という文字あるいは音には銅や鏡やその他の金属の匂いが染み付いているように思えてならないのである。
 話は変わるが、“迦具夜比売(かぐやひめ)”も気になる存在である。“かぐや姫”の“かぐ”が“かがよふ(燿ふ)”の“かが”に通じるということは学者も認めるところだからである。そんな光に関係するとされる名を持つ“かぐや姫”あるいはそれに似た不思議な姫君は「竹取物語」で描かれているだけではなく、他の類話にも見られる。私が好んで引用する「今昔物語集」にも巻第三十一に竹取の翁の話が収録されており、この話は「竹取物語」とは系統が異なるとする説がある。系統の異なる複数の類話が存在するとなると、この手のそれぞれ独立した話が古代日本に広く分布していたと考えなければならない。即ち、単なる空想物語ではなく、全国のあちらこちらで起こり得る事件であり、また実際に起こったであろう事件が物語りに織り込まれていると考えるべきだろう。より厳密に言うなら、「一般人には珍しいが決して奇跡的とは言えない程度の事件」ということになる。ここでは、「竹取物語」より素朴な筋立てである「今昔物語集」の「竹取の翁、女児を見付けて養へる語」の物語に沿って、それがどのような出来事であったのかを推察してみたい。
 翁が女児を見付けたきっかけは「一つの光」を認めたことであった。出発点から光が登場するのである。ただ、この光はただの不思議な光ではない。何故なら、この女児を見付けた後に翁が竹を刈りに行くと、竹の節から金(くがね)が出てきたという一節があるからである。女児が発していた光は、明らかに、金(くがね)の放つ光に通じていると考えられるのである。私はこの話を素直に理解したい。翁が見つけた“女児”とは、光り輝くと共に莫大な利益をもたらす金属を表していると思うのだ。勿論、その金属が黄金そのものであったとは思わない。古代日本における唯一の産金国は陸奥だったし、当時の陸奥にはまだ蝦夷(えみし)が多く住んでいた。そんなたった一箇所の、然も辺境の地の話が複数の系統で日本中に流布するとは考えられない。ここでいう金属とは、銅あるいは水銀のことだと考えるべきだろう。何れの金属であっても、それを売れば莫大な利益を得ることができた。「翁忽に豊に成ぬ」という描写は翁が見付けた金属が黄金でなくても成り立つことだと言えるのである。
 私は、翁が見つけたのは辰砂(水銀)だったと思う。先ほど述べた通り、辰砂鉱山を表す“丹生”という地名は全国に多数ある。辰砂の発見は「一般人には珍しいが決して奇跡的とは言えない程度の事件」に適合するであろう。また、辰砂鉱山から純粋の水銀が採れることも決して稀なことではなかったようなのである。水銀の硫黄化合物である辰砂は赤いが、純粋な金属水銀は銀白色に輝く。翁が「一つの光」を認めたという表現に見事に符合する。「古事記」の神武天皇東征譚には、「尾ある人井より出で来。その井光れり。『汝は誰そ』と問はしければ、答へ白さく、『僕は国つ神名は井氷鹿(ゐひか)』とまをしき」とある。吉野に辰砂鉱山があったことはよく知られた事実であり、この話はその辰砂鉱山のことを述べていると考えられる。ここで、特に注目されるのは「その井光れり」という部分である。この露天掘りの辰砂鉱山では辰砂のみならず遊離した金属水銀が採れたことを物語っているからだ。竹取の翁が偶然に遊離水銀を発見するということは有り得ることなのである。遊離水銀の価値は計り知れない。金属水銀は辰砂を加熱処理して得るが、遊離水銀なら無処理でそのまま金属加工に用いることができるからである。竹取の翁が莫大な利益を得たであろうことは想像に難くない。
 以上のことから、私は、竹取の翁が見た光は遊離水銀の光であり、従って、女児は“水銀の精”、あるいは、より包括的に捉えるなら“金属の精”を表現していると考える。「今昔物語集」では「かぐや姫」という名称は使われていない。だが、「竹取物語」の設定は「今昔物語集」の話と酷似している。即ち、「竹取物語」の“迦具夜比売(かぐやひめ)”は「今昔物語集」の女児に相当する存在である。従って、この“金属の精”たる“かぐやひめ”の“かぐ”は、光というよりは金属を指すと考えることができるのである。念の為に申し添えるが、“や”は語調を整えるとともに語感を際立たせるための間投助詞であり、“ひめ”は“日女”で、高貴な女性に対する尊称である。
 更に、物語の続きについて考えよう。長じて美しい女になった女児を天皇が后にしたいと願ったが、女は空からやってきたこの世の人とは異なる人々に連れられて空へと登っていったとされている。単純に考えれば、権力者が貴重な鉱物を欲しがったが、鉱山を掘り尽してしまったために手に入れることが出来なかったことを言っていると考えられる。また、深読みするなら、水銀が簡単に蒸散してしまうことを表現しているのかもしれないとも思われる。既に述べたが、金と水銀のアマルガムは古代から鍍金に使われていたが、これはアマルガムを熱すると水銀だけが蒸散することを利用している。また、白粉(おしろい)もまた過熱して水銀を蒸散させることによって製造されていた。古代人は水銀の物理的な性質を熟知していたのであるから、この考えも強ち考え過ぎとは言えないと思う。“水銀の精”たる女児あるいはかぐや姫が蒸気として天空へと昇っていくことは、古代人にとっては、むしろ自然なことだと考えるべきなのかもしれない。
 「竹取物語」では、かぐや姫が昇天する際、天羽衣を着たと言っている。かぐや姫は「天羽衣伝承」とも通じる部分があるのだ。またもや話が変わるが、この羽衣伝説の一つにも気になる話がある。「近江国風土記」逸文(「帝王編年記」)で、“伊香小江(いかごのをうみ)”の伝説である。この伊香小江に八人の天女が白鳥に姿を変えて舞い降り、水浴びをしたということだ。それを見付けた伊香刀美(いかとみ/いかごのとみ)という男がその天女に恋をして、白犬に天羽衣を盗ませた。犬が一番年下の天女の羽衣を盗むことに成功したため、その天女は天に帰ることができなくなってしまった。その天女は刀美と結婚し二男二女を儲けたが、その子供たちが伊香連(いかごのむらじ)の先祖であるという。「新撰姓氏録」によると、伊香連(いかごのむらじ)は左京神別上に列せられており、その祖は、この伝承とは異なり、天児屋根命の七世孫だという。即ち、伊香氏とは、天女の末裔を自認していた近江の地方豪族だったが、後に中央政界に打って出るに当たって、中臣氏(藤原氏)の同祖同盟に加わった氏族だということになる。
 この羽衣伝承の舞台となった伊香小江とは、滋賀県伊香郡の余呉町にある余呉湖である。この地域は琵琶湖の北端部にあり、伊吹山地と琵琶湖の狭間に位置する。地図を開いてみると、余呉湖の東側に流れる高時川の右岸には“丹生”という地名が残されていることに気付く。この辺りにも辰砂鉱山があったらしいのである。伊吹山はヤマトタケル伝説で彼を死に導く祟りをなした神が住む山である。“ソホド”の考察のところで言及したように、ヤマトタケルは伊吹の鉱毒によって病み、三重の地で死んだと解釈し得る。伊吹山地の其処此処に“丹生”の地が存在することは不思議ではないのである。また、“刀美(とみ)”を“富(とみ)”の意として表記した例が多く認められることから、伊香刀美は竹取の翁と同じような富豪であったと理解すべきである。従って、この羽衣伝説を、「伊香刀美という、処理法を誤ると全てが蒸発してしまう水銀を巧く手元に留めることによって富み栄え、豪族としての地位を確立した男の物語」だと理解することに無理はないと思う。
 伊吹山の鉱毒に犯されたヤマトタケルは、三重で死ぬと大きな白鳥になって飛んで行ったという。また、垂仁天皇の皇子で、私は鉱毒による障害だと解釈しているが、髭が胸に達するほど伸びるまで泣くばかりで一言も喋らなかったというホムツワケノミコトは、白鳥の姿を見て初めて口が利けるようになったともいう。これらの例のように、私が鉱毒中毒の話ではないかと疑う伝承には白鳥が関係しているものが多いのである。而して、“伊香小江”の羽衣伝説にも白鳥が登場する。この伝承は、やはり、辰砂(水銀)に関係した話なのである。先に、「“香(か/かご/かぐ)”という文字あるいは音には銅や鏡やその他の金属の匂いが染み付いているように思えてならない」と述べたが、“伊香連(いかごのむらじ)”の“香(かご)”にもまた金属たる水銀の香りが漂っている。因みに、最終的に、刀美と結婚した天女は天羽衣を見つけ出して、かぐや姫と同じく、天へと帰って行ってしまった。刀美は再婚することなく嘆き続けたという。やはり、鉱山はいずれ掘り尽される運命にあるのである。
 ところで、誤解を生じてはいけないので明言しておくが、私は全ての羽衣伝説が金属に関係しているとは考えていない。近江の隣国である丹後には、天女が食物神だとしている話もある。また、白鳥が金属あるいは鉱毒にのみ関係しているとも思っていない。白鳥が明らかに稲魂の化身として描かれている話も数多くある。私はただ天羽衣伝承の中に金属による成功譚と思われる例があることを指摘し、それに白鳥が登場することに不自然な点はないと言っているだけである。伝承というものは、その伝承者の置かれた環境やあるいは伝承者の志向性によって、自ずとまたは恣意的に潤色される。余呉湖には別の羽衣伝承が残っており、それによると、天女と地元漁師との間に生まれた子供が後の菅原道真だという。同一地域に二つの異なった羽衣伝承が存在するのである。一つのプロトタイプの羽衣説話があり、近接した地域に住む二つのグループによってそれぞれ異なる方向へと脚色されたことは明らかであろう。“伊香小江”の場合は、伝承者がたまたま丹生の地に栄えた伊香氏であり、その開祖の誕生譚に羽衣伝説を利用したと考えられる。
 もう一つ余計なことを申し添えると、“とみ”には“蛇”の意味があるという説がある。その説に拠れば、諏訪神社の祭神である建御名方富命(たけみなかたとみのみこと)の“富(とみ)”も蛇を意味することになるが、確かに、諏訪神社には蛇神様の匂いが充満している。もし、伊香刀美の“刀美(とみ)”がその音通りの“富”であると同時に“蛇”のことなら、伊香連の先祖は水銀の精と蛇だということになり、私が唱える“雷”=“光”=“剣/刀/矛”=“鏡” =“金属”=“火”=“蛇”=“雷”・・・という等式に見事に合致する例だとも言える。これは私にとっては都合のよい解釈だが、残念ながら、“とみ”が“蛇”を表すということを論証するには至っていない。従って、このことを前面に打ち出すことはできない。ただ一つの参考資料として紹介するに止めておく。
 これまでの議論から、“ホノカグツチノカミ(火の迦具土の神)”や“あめのかぐやま(天香山)”や“迦具夜比売(かぐやひめ)”の“かぐ”や“伊香連(いかごのむらじ)”の“かご”もまた、金属の光あるいは金属そのものを神格化した“かがち(かが霊)”と深い関係にあると結論付けることができる。“かがみ(鏡)”から始まり“かがち(かが霊)”に収束した私の考察が、かなり多くの“かが”やそこから転じたと考えられる“かぐ”や“かご”に当てはまるということなのである。これを単なる偶然だと否定することは困難であろう。従って、“ソホド”の“ど”は乙類であって、その“ど”が甲類である“ど(處)”に由来するとする考えに不利であるといった問題も残ってはいるが、総体的に考えれば、これも、既に論じたような音韻論的な音の変化だとして納得すべきだと考える。古代日本語には母音調和という法則が厳としてあったとされながら、その法則の具体的内容が一向に明らかにされない現状では、甲類から乙類への転訛を無下に否定する根拠はないのだと主張したい。

=お仕舞いに=
 さて、タイムマシンが我が物として利用できるなら、私は、「此処だ」と狙い定めた太古の山田を定点観察するであろう。その畦道では、人を恐れもしないヤマカガシが蛙を狙っていることだろう。時には、真っ赤に熟れた鬼灯(ほおずき)をかざして嬉しそうに遊ぶ幼い子供もやって来るだろう。稔りの時を控えて、其処には人の形をした鹿威しが立てられるのであろうか。生臭く且つ焦げ臭い獣肉を刺した竹串が、獣道を塞ぐように地面に差し込まれるのであろうか。あるいは、割り竹をぶら下げた鳴子が張り巡らされるのだろうか。そして、それらを田の持ち主は何と呼ぶのであろうか。
 収穫が終わり冬を間近に控えた頃には、山人たちが冬越しのための米を求めて山田の近くに下りてくることだろう。猟師もいるだろうし、辰砂や銅や鉄を操る山師もいることだろう。老練な山師の親方の中には、冶金の火加減を見定め続けたために片目を潰してしまった者もいることだろう。あるいは、強い火力を得るために踏鞴(たたら:大型の足踏みフイゴのこと)を踏み続けたために脚を傷めてしまった者もいるだろう。あるいは鉱毒中毒のために歩くことができず、籠に乗せられて部下に担がれたものもいたに違いない。山田を耕す農夫は彼らをどのように遇するのであろうか。後世、片目を潰した冶金師は“アメノマヒトツノカミ”という神格を与えられた。一つ目の鍛冶の神である。神になり損ねたものは、“一つ目小僧”という妖怪として恐れられた。脚を傷めた者についても然りであり、片足の神を祀る民間信仰は数多くある。また、妖怪にされた者としては“一本だたら”などがいる。これらのことから、彼らが恐れられたことは間違いない。だが、彼らが差し出す水銀や農具などの金属器は魅力的だったであろう。農具は山田の農夫たちの田仕事には欠かせないし、その他のものが高く売れることも知っていたからである。結局、山の民は、里の民に恐れられつつも受け入れられたに違いない。そんな山の民を里の民はどのような名称で呼んだのだろう。あれもこれも、興味は尽きない。

=蛇足=
 ところで、今回の議論では“かがち”が蛇であることが大きな鍵になっていたように思う。一見“かがち(かが霊)”とは無関係なホオズキの古名が“かがち”であることも、蛇が“雷”=“光”=“剣/刀/矛”=“鏡” =“金属”=“火”=“蛇”=“雷”・・・という連環の中に存在していなければ理解不能であった。そこで、最後に、蛇に敬意を表したい。蛇あるいはそれに類するもので、古代人が神秘性あるいは神性を感じたと思われる“ち(霊)”や“み(霊)”がついているものを指す言葉を紹介して終わりにしようと思うのである。文字通りの蛇足であるが、洒落のつもりでご容赦願いたい。と言いつつも、実は、この蛇足にも多少の意義を持たせようと目論んでいる。本文中で「“ち(霊)”も“み(霊)”も似たようなものだが、本来は異なる系統の言葉であり、従って、意味合いも多少は異なっていたのだと思う」と述べ、また、「“かがち(かが霊)”と“かがみ(かが霊)”にも何らかの合理的な違いがあったであろうと捉えておくことには意味がある。そうでないと、“かが”に“ち”と“み”という似たような詞をくっつけて二つの別意の詞を作り出す必要がないからだ」とも述べた。この点について決着をつけておかないと落ち着かないので、その考察に利用したいのである。
 既に「“み(霊)”という概念は『高度に抽象化された畏敬の対象』であるように感じられる」と言った。この後で説明する“おかみ”も“おか霊”のことだと考えられるが、この神霊もそのような概念に当てはまる。オカミとは幽谷の奥に潜む天水を司る神であり、中国の影響でその神は龍だということにされてはいる。しかし、古文献にも実際にその姿が確認されたとされる記述はないし、牙を剥いて人を襲った記録も無い。存在のみが信じられている極めて抽象的な神格だと言えるのである。“み(霊)”という概念が「高度に抽象化された畏敬の対象」であることは、“み(霊)”と同音の“み(御)”が尊敬を表す接頭辞として機能していることからも論証できる。“み(霊)”という概念が高度に抽象的だからこそ、広範囲に使い得る“み(御)”という言葉が派生したのである。
 “み(霊)”の類に対して、“ち(霊)”の付く神格あるいは精霊には、人に対する直接的な害悪やそれに対する人の恐怖感が付きまとっているように思える。即ち、これらは常人が恐怖すべき歴然たる力を有していると言える。姿も具体的であり、もともとは姿がないものであっても、異形として認識されるようなおどろおどろしいイメージがしっかりと構築されているように思う。“カグツチ”は恐ろしい雷神の姿(所謂“鬼”や“蛇”)と重なっており、その威力(火)でイザナミを焼き殺してしまった。“をろち”は明確に巨大な蛇であり、「人身御供を喰う」という伝承が付加されていたり、山を汚す者に祟ったりする。“みづち”は龍に似た脚のある蛇だとされており、毒気があって人を害すると信じられている。これら全ては、畏敬の対象でもあるが、それよりは恐怖の対象に分類した方が適切であることは誰しも認めるであろう。
 “み(霊)”と“ち(霊)”にはこのような違いがあると思われるが、“鏡(かが霊)”と“かがち(かが霊)”ではどうであろうか。鏡はその神秘性の故に神と同様に、あるいは神そのものとして斎き祀られた。蛇たる“かがち(かが霊)”は人を噛み、時には死に至らしめる。金属技術者たる“かがし”即ち“かがち(かが霊)”は異形の者を多く含む集団で、農民との物々交換の取引で話がこじれると狼藉を働いたこともあっただろう。だからこそ、神になり損ねて一つ目小僧や一本だたらといった妖怪にされてしまうこともあったのである。“み(霊)”と“ち(霊)”の違いは“鏡(かが霊)”と“かがち(かが霊)”にも当てはまるようである。このような意味合いの違いがあるからこそ、同じ“かが”に“み(霊)”と“ち(霊)”を付けた詞(ことば)がそれぞれ独立して成立したのである。
 筆者の思惑通りに最後の考察が進んだところで、いよいよ“蛇足の本論”に移ろう。
<をろち>“峰(を)・ろ・霊(ち)”のことだと言われている。“峰(を)”は山の尾根で、“ろ”は語調を整える接尾辞である。従って、オロチは山の尾根の神格化されたものだということになる。この説に文句を付ける余地はない。うねうねと続く山並みの尾根は古代人には途轍もない大蛇に見えたのであろう。「古事記」によれば、八岐大蛇(やまたのおろち)は「そが目は赤かがちの如くにして身一つに八つの頭八つの尾あり。またその身にコケまた檜椙生ひ、その長は谷八峡八尾に度(わた)りて見ゆ」なのだそうだ。要するに、背中は苔むしており、更に桧や杉が生えていて、谷を八つも越えるほどに長大なのだそうだ。この様は幾重にも連なる山々の尾根そのものではあるまいか。記紀の語る八岐大蛇退治を治水事業や製鉄技術の獲得を意味すると考えるのは穿ち過ぎだろう。記紀が構築した神話の世界に限るなら、大和朝廷の進路を塞いだ大山脈の如くに強力な出雲人(あるいは、その他の対抗勢力)の征服そのものが、八岐大蛇退治の主題だと理解すべきではあるまいか。因みに、“をろち”の“ろ”という接尾辞は、「万葉集」の東歌に特徴的なので、古代東国の方言だと言われている。だが、私はそのようには思わない。オロチが東国限定のローカルな精霊ではないからである。この“ろ”という接尾辞は、控え目に見積もっても、万葉集に描かれている世界よりずっと昔、即ち古墳時代前記以前にまで遡ることができるであろう極めて古い日本語の名残りであって、上代においては、既に使われなくなりつつあった言葉なのだと思う。そんな言葉の変化が、中央(即ち、大和)から地方へと広まっていく過程にあったから、鶏が鳴く東の歌に多く残されただけなのだと考えたい。
<みつち/みづち>山々の霊であるオロチに対して、水の霊であって、“水(みつ)・霊(ち)”あるいは“水(み)・つ・霊(ち)”だと解釈されている。後者の場合の“つ”は“〜の”という意味を示す助詞である。蛇よりは龍に近い四肢を持つ怪物の姿で描かれている。毒気があって人を害するということにもなっている。水は命の源であると同時に、洪水などを引き起こすことから、人が制御しきれないものとして恐れられてきた。そのような二面性を持つ水というものに対する古代人の畏敬と恐怖の表現がミズチなのだろう。そのように考えると、“みづち”が龍の姿で描かれるようになったのは、龍という概念とムシヘン(虫)に“交”という漢字が中国から日本に持ち込まれた後のことだろうと思う。時には大氾濫を起こすゆったりと蛇行する大河や、古代人が操る小船などは一のみにしてしまいそうな外洋の大波の連続こそが水の精たる“みづち”には相応しい。私は、“みづち”もまた途轍もなく大きな蛇だったのだと考えたい。
<おかみ>幽谷に棲む竜神のことで、「万葉集」巻二に、藤原夫人(ふぢはらぶにん)の詠んだ「わが岡のおかみに言ひてふらしめし雪の拙(くだけ)しそこにちりけむ」という歌がある。オカミは「古事記」や「日本書紀」にも出てくるが、この歌からも分かるように、降雨や降雪といった天水などの水の循環を司ると考えられている。このオカミは“お・神”ではない。例の甲類・乙類の話になるが、“おかみ”の“み”は甲類だが、“かみ(神)”の“み”は乙類だからである。また、“陸・み”でも“丘・み”でも“岡・み”でもない。“陸”は“くが”あるいは“くぬが”と言ったし、“丘”も“岡”も“をか”であって“おか”ではないからだ。“おかみ”の名の起こりについての定説はないようだが、私は“おくみ(奥霊)”が転訛したものではないかと思っている。“く”から“か”に一気に変化することは有り得ないだろうが、途中に乙類の“こ”(その母音は“あ”と“お”の中間音)が介在した二段階の変化だと考えれば無理なくこの音の移行を想定できる。幽玄に翳(かす)む谷の奥に潜む神なのだから、このような命名は充分に有り得ることだと思う。重ね重ねの蛇足ながら、この竜神のために、雨かんむりの下に横並びの“口”三つを書き、更にその下に“龍”を書いたややこしい文字が創られていることも紹介しておこう。この雨かんむりの下に“口”が三つ横並びになった文字は中国における雨乞いの儀式を表す漢字である。従って、この下にさらに“龍”の字を継ぎ足した“おかみ”という文字は、中国的な竜神思想によるものだと推察される。私は、本来の“おかみ”が龍の姿をしていたとは思わない。“おかみ”は中国文化が導入される前から日本に居たと考えた方が自然だし、太古の日本に龍はいなかったからである。水を司る“おかみ”もまた“みづち”と同様に蛇であった可能性が高いが、私には“おかみ”が蛇だと断言するだけの確信もない。と言うか、谷の奥深く幽玄の帳に閉ざされた彼方に潜む“もの”の姿は想像を絶するに違いない。そのように考えるとき、私には「“おかみ”には姿がなかった」というのが正解であるようにも思えるのである。

 さて、蛇神様たちは私の心からの敬意を感じ取ってくれただろうか。先に書いたように(「タイムマシンがあったらなぁ<その3:イザナギ、イザナミ>」、2005年2月26日)、蛇は古代日本人の精神生活の奥深くに陣取っていたと考えられる。このことは、そんな蛇が八百万の神々の多くの名称の由来になっていたり、そこまでではなくとも、それらの命名に深く関わっているとする強固な根拠になると思う。ここで考察した“鏡”と“案山子”、この一見無関係な二つのものを関連付けるのも蛇であった。私は大の蛇嫌いだが、蛇の存在の大きさだけは認めているつもりだ。再度、古代人が畏敬した神としての蛇に現代人からの敬意を表して筆を置く。

(2005年3月29日)


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言葉遊び・和歌・物名

 以前、「言葉遊び・和歌・枕詞」(2004年11月7日)と題して、主に「万葉集」の歌を素材にして日本人の言葉遊び好きについて考えました。今回は、より進化した言葉遊びを「古今和歌集」に求めてみることにします。ご承知の通り、延喜五年(905年)の勅命を受けて撰進された「古今和歌集」の歌は、素朴な「万葉集」のものに比べると遥かに技巧的です。その点は後ほど具体的に見るとして、何よりも強く感じる変化は、歌のリズムではないでしょうか。研究者の見解によれば、歌の詠じ方が変わったためらしいのですが、「古今和歌集」こそが私たちには馴染み深い王朝和歌の出発点だったのだと強く印象付けられる現象だと思います。
 もう一つの印象的な変化は、枕詞の使用が減ったことだと思います。枕詞がなくなった訳ではありません。恋歌には枕詞が盛んに使われていますし、類語や縁語による詞(ことば)の導入も数多く観察されるのです。従って、私の印象は単なる錯覚にすぎず、統計学的に検討すれば「万葉集」と大差ないのかもしれません。「古今和歌集」の歌には、自然現象で人の感情を暗示したりする持って回った表現が多いので、より単純なテクニックである枕詞の印象が薄いだけなのかもしれないのです。でも、「万葉集」に見えるようなあからさまで類型的な枕詞の使用については確実に減っていますし、好んで使われる枕詞の種類が減っていることも明らかだと思います。言葉遊びの技術が複雑になり、単純な技巧を必要としなくなったのではないかと考えられます。私の感覚で表現するなら、和歌での遊び方が変化したということになります。例えば、巻第十八には題詞が「おなじもじなき歌」となっている次のような歌があります。
  @世のうきめ見えぬ山ぢへいらんには思ふ人こそほだしなりけれ<もののべのよしな>
三十一文字を全て異なる音にするなんて、何とも面倒な遊びを考え付いたものです。歌あるいは詩ではありませんが、英語にもアルファベット全種類を一回だけ使って作った文があるそうですから、このような遊びは文化圏の違いを超えた人類にとって普遍的なものなのかもしれません。しかし、私のような単純な人間には、却って遊び心がささくれ立ちそうに思えます。このような遊びに興じた作者たちに苦痛はなかったのか気に掛かるところです。
 それはさて置き、現在でも盛んに行われる句頭への言葉の読み込みも、この時代には既に始まっています。
  A唐衣 きつゝなれにし つましあれば はるばるきぬる 旅をしぞ思う<在原業平朝臣>
  B小倉山(をぐらやま) みねたちならし 鳴く鹿の へにけん秋を 知る人ぞなき<つらゆき>
 Aは「かきつばた(杜若)」が、またBは「をみなへし(女郎花)」が五つの句頭に配置されているのですが、ピンときますか? 因みに、Aでは“唐衣(からころも)”という枕詞も目に付きます(“着つゝ”に掛かっています。)また、Aの題詞には「かきつばたといふ五文字(いつもじ)を句のかしらにすゑて」という表現が見えます。私の「句頭に配置」より遥かに優美な言い回しですな。こういった大和言葉のセンスがあって始めて嗜める遊びのようであります。私のように、頭の中でうろ覚えの漢語や英単語あるいはその他の外国語の断片が無秩序にふらついている中途半端な日本人には、とても真似のできない高度な言葉遊びなのです。
 私でも、大喜利でよく取り上げられる川柳(せんりゅう)程度なら三句十七文字なのでなんとかなるのですが、四句二十六文字の都都逸(どどいつ)となると最早苦しくなります。大喜利の司会者は良い作品を作った噺家さんたちに座布団を進呈しますが、遠い昔の歌人たちに私たちから座布団を進呈する訳にはいきません。でも、こういったすばらしい「芸」には賞賛を惜しんではならないと思います。芸人さんではありませんが、在原業平と紀貫之にも遅れ馳せながら盛大な拍手を送ろうではありませんか。
 平安時代の人々(富裕な有閑層に限ってのことだと思いますが)は、このような歌への詞(ことば)の読み込みに凝っていたようです。かの有名な「いろはうた」は、@と同じく一音を一回しか用いず、しかも基本の47文字全てを網羅しています。更に、それだけでなく、AやBの様に歌の中に或る言葉が隠されているのだといいます。「いろはうた」は「金光明最勝王経音義」という書籍の11世紀に書かれた写本に出てくるそうですが、それは、次のように、六つの七音句と一つの五音句に区切られているのだそうです。即ち、この“隠し言葉”は後世の好き者がこじつけたのではなく、「いろはうた」が作られたであろう平安時代の当時から既に意識されていたということになります。
  以呂波耳本へ止
  千利奴流乎和加
  余多連曽津祢那
  良牟有為能於久
  耶万計不己衣天
  阿佐伎喩女美之
  恵比毛勢須
このように区切って句末の文字を拾っていくと、「止加那久天之須(咎なくて死す)」という不気味な言葉が浮かび上がってくるのでありますぞ。浄瑠璃の「仮名手本忠臣蔵」ではこのことを作品の中で利用してあるのですが、ということは、18世紀の京、大阪、江戸の庶民にとって、この「いろはうた」の“隠し言葉”は常識であったということになります。こんなことなど既に忘れ去ってしまった現代人には、大いなる驚きではありませんか。

 さて、本日のメインテーマである“物名”は詞(ことば)を歌に読み込む遊びの一種です。“物名”は“もののな”と読むのですが、事物の名称や地名だけでなく動作を表す詞までも和歌の中に読み込む技巧のことをいいます。絵画の世界には“隠し絵”というものがあります。ただの風景や人物や静物が描かれているように見えるのですが、よくよく目を凝らすと別のものが浮かび上がって見えるというものです。それと同じように、さり気なく或る言葉を歌の中に潜ませるのが“物名”なのであります。上で取り上げたAとかBも“物名”の一種ですが、お題の言葉をばらばらにしないで歌の中に潜ませたものが「古今和歌集」巻第十にずらりと並んでおります(実は貫之のBも巻第十にあります。) 以下、それらをご紹介するとともに、私の徒然にして浅薄な論評を添えたいと思います。それだけのことなので、気楽にお付き合いください。なお、以下、“:”で区切ってお題と歌を書きます。また、<>内は作者名です。また、先程は「遠い昔の歌人たちに座布団を進呈する訳にはいきません」と真面目なことを申し述べましたが、論評の中では、高い評価の表現として「座布団進呈」とも言いますのでご諒解ください。

  うぐひす:心から花のしづくにそぼちつゝうくひずとのみ鳥のなくらん<藤原としゆきの朝臣>
“鶯”を第四句の“憂(う)く干(ひ)ず”に生かしています。お題の詞が句の先頭に配置してあるので簡単にそれと見えます。まぁ、初歩的で分かり易い部類と言えるでしょう。練習問題だと見做して評価の対象外と致しましょう。

  ほとゝぎす:くべきほど時すぎぬれやまちわびて鳴くなる声の人をとよむる<藤原としゆきの朝臣>
これも初歩的と評価することが許されるでしょう。先ずは、歌の内容がお題である“時鳥(ほととぎす)”に添い過ぎているからです。発想が単純だということで低い評価を下したいと思います。それに、隠し方も単純で、隠れている箇所も直ぐに見つけることができるでしょう。左様、初句から第二句にかけての“くべきほど 時(とき)過(す)ぎぬれや”がそれです。これも練習問題ですな。

  (墨滅歌)ひぐらし:そま人は宮木ひくらしあしひきの山の山彦よびとよむなり<つらゆき>
 第二句に“ひくらし”が歴然と見えます。“蜩(ひぐらし)”を“引くらし”に読み替えてはいますが、極めて初歩的なテクニックで、上級者の貫之らしくありません。「古今和歌集」の撰者の一人である彼が、余りに単純な自作を恥じて削除した(墨で滅した)のかもしれません。そう思えるほどに見え見えであります。従って、この作品は黙殺します。

  うつせみ:浪のうつ瀬みれば玉ぞ乱れけるひろはば袖にはかなからむや<在原しげはる>
「お題は“空蝉”です」と言えば即座に目に付くでしょう。これも初句から第二句にかけて隠してあります。“うつ瀬み”の“うつ”が目を引いてしまいますなぁ。漢字で“浪の打つ瀬見”と書かれていたらもう少し分かり難かったかもしれませんが・・・いつまでも練習問題だといって見過ごしてはいられませんから、これについては気のない疎らな拍手を送るということでいかがでしょうか?

  うつせみ(返歌):袂より離れて玉をつゝまめやこれなんそれとうつせ見むかし<壬生忠岑>
お題は結句で処理していますが、“打つ瀬見”に対して“移せ見”で返しているあたりに工夫が認められます。しかも、命令形+意思表示形で結んでいるのも洒落ているではありませんか。そこを評価して、ハナマルとまではいきませんが、まぁマルをつけてもいいでしょう。勿論、拍手も送ります。

  うめ:あなう目に常なるべくも見えぬかな恋しかるべき香はにほひつゝ<よみ人しらず>
この歌ではお題を初句の“う(憂)目”に当てていますが、課題が二文字の“うめ”ですから何とでもできそうです。従って、評価は低く、論評する意欲も殺がれます。さっさと次を鑑賞しましょう。

  かにはざくら:かづけども浪のなかにはさぐられで風吹くごとに浮きしづむ玉<つらゆき>
“かにはざくら”というのは“樺桜(かばざくら)”のことだそうです。目を凝らしてよく見ると、第二句から第三句にかけて隠れているのが分かります。“中(なか)には探(さぐ)られで”の中に潜ませるのはなかなかのテクニックですな。それに、歌も綺麗にまとまっています。高得点作品第一号として、記念の座布団を差し上げましょう。

  すもゝの花:今幾日(いくか)春しなければうぐひすも物はながめて思ふべらなり<つらゆき>
第三句から第四句にかけての“鶯(うぐひす)も物(もの)は眺(なが)めて”に入っています。一つ前の“かにはざくら”同様になかなかのものです。いずれも紀貫之の作ですが、「さすが」と言うべきでしょう。でも、続けて「座布団進呈」とはいきませんから、ここは、拍手のみということで我慢してもらいます。

  からもゝの花:あふからもものはなほこそ悲しけれ別れんことをかねて思へば<ふかやぶ>
初句から第二句にかけてお題が見えます。隠し方も凝っていて“逢(あ)ふからも物(もの)は尚(なほ)こそ”に潜ませています。「清原深養父もやるな」と、七文字に及ぶ長いお題を複雑にこなした点は評価できるのですが、隠されたお題を見つけて膝を打つほどではありません。と言うより、直ぐに見つけられて面白くありません。まぁ、賞賛の拍手は惜しみませんが、座布団はご容赦ください。尚、“からもも”は“杏(あんず)”の古名です。

  たちばな:あしひきの山たち離れゆく雲のやどり定めぬ世にこそ有りけれ<をののしげかげ>
単純なお題なので、第二句の中にすっぽり入り込んでいます。隠し方も垢抜けていてまずまずの出来だとは思うのですが、如何せん、お題が短か過ぎて謎が簡単に解けてしまいます。歌も平板の謗りを免れ得ないでしょう。ということで、座布団や熱心な拍手は差し上げず、言葉での評価のみにしておきましょう。

  をがたまの木:みよしのの吉野のたきにうかびいづる泡をか玉のきゆと見つらん<とものり>
お題は第四句から少々はみだして結句の頭にまで及んでいます。老練な紀友則の面目躍如といった感ですな。しかし、“を”が光っていてお題探しの興が殺がれていると言わざるを得ないでしょう。“を”が特殊化してしまった現代における評価は低くなってしまいます。お題と時代に泣かされた気の毒な例と言えましょうか。ところで、“をがたまの木(小賀玉木/黄心樹)”は「めどにけづりばな(メドに削花)」(“メド”は“メド萩”のこと)、「かはなぐさ(川菜草)」(後ろの方にお題として出てきます)と共に古今伝授三木に数えられているモクレンの仲間の樹木です。

  (墨滅歌)をがたまの木:かけりても何をかたまのきても見ん骸(から)は炎となりにしものを<勝臣>
墨滅歌だと思って見るからでしょうか、捻り過ぎのように思えます。それに、歌自体が面白くありません。更に、友則の作品同様、現代人には“を”が見え見えの状態です。文句を並べ立てるばかりで恐縮ですが、知らん振りして次へ進みます。

  やまがきの木:秋はきぬ今やまがきのきりぎりす夜な夜な鳴かむ風の寒さに<よみ人しらず>
“やまがき”というのは“信濃柿”のことだそうです。お題は第二句から第三句にかけて入っています。特別に素晴らしいテクニックではないのですが、歌が綺麗ではありませんか。冷たくなってきた風に吹かれて、籬(まがき)にとまって鳴く初秋のキリギリス・・・いいですねぇ。ということで、この歌の作者として名前を残さなかった名無しの権兵衛殿に座布団一枚。

  あふひ・かつら:かくばかりあふ日のまれになる人をいかゞつらしと思はざるべき<よみ人しらず>
同じ課題で造られた次の歌と合わせて論評します。
  あふひ・かつら:人のゆゑ後(のち)にあふ日のはるけくはわがつらきにや思ひなされん<よみ人しらず>
二つとも同じような出来栄えなので、まとめて批評してしまいます。“あふ日”はちょいと安直に過ぎませんかねぇ。第四句の“いかゞつらし”と“わがつらきにや”に“かつら”が入っています。まぁまぁと言ったところでしょうか。二つの課題をこなした点は評価できますが、“あふ日”の捻りの無さとお題が二つとも三文字で短いことから、それほど高くは評価できません。

  くたに:散りぬれば後(のち)はあくたになる花を思ひ知らずもまどふてふかな<僧正へんぜう>
歌の内容からして、“くたに”というのが観賞に価する花を咲かせる植物であることは間違いないのですが、学者の説は区区(まちまち)でリンドウだとかボタンだとか言われています。物名(もののな)を楽しむということなので、どうでもいいことですが、やはりちょぴり気になります。“くたに”って何なんでしょう? ところで、その“くたに”は第二句に入れてあります。お題は単純ですが、美しくまとめてあります。と言うか、如何にも坊主が詠んだ歌といった感じが強いと思いますなぁ。まぁ、高名なる僧正遍照のことですから、拍手は惜しみませんが、座布団は差し控えておきましょう。

  さうび:我はけさうひにぞ見つる花の色をあだなる物といふべかりけり<つらゆき>
“さうび”は“そうび”とか“しょうび”と言った方が通りがいいようです。速い話が“薔薇”のことであります。さすが貫之、初句から第二句にかけての“けさうひにぞ見つる”で処理しています。しかも、“我は今朝 初にぞ見つる”ときましたか・・・お題は三文字の単純なものですが・・・エイヤッと気合を入れて逡巡を振り切りましょう。座布団進呈しちゃいます。

  をみなへし:しら露を玉にぬくとやさゝがにの花にも葉にも糸をみなへし<とものり>
現代人には分かりにくい風習と用語ですなぁ。“ささがに”は“蜘蛛”のことで、“玉に貫く”は数珠球細工を思い浮かべればいいでしょう。結句の“糸をみなへし”にお題が入っていますが、これも分かり難い。“糸をふ”というのは機織で“経糸(たていと)”をセットすることを言います。女郎花(おみなえし)を蜘蛛の糸に詠み込むとは、老練な友則ならではですが、如何せん、現代人には受けそうにありません。そこで、静かに拍手のみを送っておきましょう。

  をみなへし:朝露をわけそぼちつゝ花みんと今ぞ野山をみなへしりぬる<とものり>
これも結句にお題が潜んでいます。情景は異なりますが、処理法の基本は一つ前のと同じ“を(助詞)皆〜”です。作者が同じなので仕方ないのかもしれませんが、もう一工夫が欲しいところです。ここは、静かな拍手も遠慮して、そっと通り過ぎてしまいましょう。

  きちかうの花:秋ちかう野はなりにけり白露のおける草葉も色かはりゆく<とものり>
思い切り良く初句でずっぱりお題を詠い込んでいます。“桔梗(きちかう/ききょう)”が“秋近う”になるとは、些か意表を突かれました。歌も多少こじんまりしてはいますが、よくまとまっていますよね。友則には厳しい評価が続いてしまいましたので、ここは野暮な論評抜きで座布団二枚。

  しをに:ふりはへていざふる里の花みんとこしをにほひぞ移ろひにける<よみ人しらず>
“しをに”は“紫苑”。綺麗に隠してありますが、お題の詠み込み場所は分かりますか? 左様、第四句の“来(こ)しを匂(にほ)いぞ”の処です。歌のリズムが見事に“しをに”という詞を消しています。これは見事と言っていいでしょう。それに、歌自体も素朴ながら悪くない。名無しの権兵衛殿に、座布団+スタンディング・オベィションと参りましょう。

  りうたんのはな:わがやどの花ふみしだくとりうたん野はなければやこゝにしもくる<とものり>
漢方薬に詳しい方なら“りうたん(竜胆)”をご存知でしょう。“リンドウ”のことであります(生薬としてはその根だけを用いますが。)これも巧妙にお題を潜ませてあります。答は第三句の“鳥(とり)打(う)たん”なのですが、歌を鑑賞しながら読むと見過ごしてしまいます。が、友則ほどならこの程度はできて当たり前、しかも、さっき座布団を二枚も進呈したところです。ということで、座布団なしのスタンディング・オベィションで我慢していただきましょう。

  をばな:ありと見てたのむぞかたきうつせみの世をばなしとや思ひなしてん<読人しらず>
第四句にお題が入っていますが、もう一つ関心しませんなぁ。歌そのものがつまらないからでしょうか? ワザとらしいからでしょうか? 兎に角、こういう暗い歌は嫌いです。だから、独断的に、低い評価とさせていただきまーす。

  けにごし:うちつけにこしとや花の色を見んおくしら露のそむるばかりを<やたべの名実>
恥ずかしながら、私、この歌を読んだとき、「“アサガオ”のことを“けにごし(牽牛子)”とも呼ぶんだ」と驚いてしまいました。でも、よく考えたら、生薬に“けんごし(牽牛子)”というのがあり、それは“アサガオ”の種だということを思い出しました。しかも、中国語のできる人に訊いたら、“牽牛子”は中国語の“アサガオの種”のことで“アサガオの花”なら“牽牛花”だと即答が返ってきました。自分の無知と記憶力の悪さに驚くべきでありました。それはそれとして、お題は初句から第二句にかけて詠み混んであります。こなしかたはまぁまぁなのですが、歌の内容に共感を覚えないのです。歌の構成も技巧に走っていますし、はっきり言って、私はこの歌は好きではありません。そこで、作者には「まぁまぁ」という言葉だけの評価で我慢してもらいます。

  めど:花の木にあらざるめどもさきにけりふりにしこのみなる時もがな<文屋やすひで>
“めど”が何だか分かりません。しかも、高名なる文屋康秀には申し訳ないのですが、たったの二文字では評価の対象外とせざるを得ません。ということで、そっと次へ移りましょう。

  しのぶぐさ:山たかみ常にあらしのふく里はにほひもあへず花ぞちりける<きのとしさだ>
“しのぶぐさ”は羊歯(しだ)の仲間の“シノブ”でしょう。お題は第二句から第三句にかけて複雑に入り込んでいます。“嵐(あらし)の吹(ふ)く里(さと)は”ですから四語に亘っているということになります。歌は平板ではありますが、そこを評価して、座布団一枚。

  (墨滅歌)くれのおも:こし時と恋ひつゝをれば夕ぐれの面影にのみ見えわたるかな<つらゆき>
“くれのおも(呉の母/懐香)”というのは“ウイキョウ”のことです。若い人、あるいはハーブ好きの方には“フェンネル”と言った方が分かり易いでしょうか。第三句から第四句にかけてお題が見えますが、貫之にしてはちょっと安易な処理ではないでしょうか。ということで、残念ながら、鐘一つの落選。

  やまし:ほとゝぎす峯の雲にやまじりにしありとは聞けど見るよしもなき<平あつゆき>
“やまし”は“山師”ではありませんので、念のため。えっ、「誰が間違えるんだ?!」ですって。これは失礼しました。まぁ、一応説明させてください。“やまし”は“知母”と書きますが、“ハナスゲ”の別称です。お題は第二句から第三句にかけて嵌め込まれています。三文字のお題ではありますが、“雲(くも)にや 混(ま)じりにし”はまずまずでしょう。歌も不味くはありません。とは言え、“やまし”は簡単過ぎる課題ですから、盛んな拍手のみでいかがでしょうか。

  からはぎ:空蝉のからはきごとにとゞむれど魂(たま)のゆくへを見ぬぞかなしき<よみ人しらず>
“からはぎ(唐萩)”は“ハギ(萩)”に同じです。お題は第二句に収まっているのですが、その部分は二通りに解釈できます。一つは、“殻(から)は木(き)ごとに”であり、もう一つは“骸(から)は棺(き)ごとに”です。前者なら“木にぶら下がった蝉の抜け殻”を歌ったことになりますが、後者なら“亡骸の入った棺桶”を歌ったことになります。何れにせよ、“魂(たま)のゆくへを見ぬぞかなしき”なのですから、不気味あるいは寂しいという評価を免れることはありません。しつこいようですが、私は不気味な歌は嫌いです。なので、知らん振りして次へ行きまーす。

  かはなぐさ:うばたまの夢になにかはなぐさまんうつゝにだにもあかぬ心を<ふかやぶ>
お題は、“をがたまの木”の歌で述べた通り、古今伝授三木の一つです。その“かはなぐさ”ですが、“コウホネ”のことだとも言われますが、“川菜草”という一般名称だと理解するのが自然でしょう。私は“何らかの水草”のことで良いように思います。それはともかく、お題は第二句から第三句に跨って潜んでいます。上手な詠み込みと言っていいでしょう。それにしても、“からもゝの花”の「あふからもものはなほこそ悲しけれ別れんことをかねて思へば」もそうですが、深養父は切ない恋の歌がお好きなようです。でも、私はこういう歌ばかりでは辟易します。そこで、勝手ながら、今回も座布団はお預けということでご容赦願います。

  さがりごけ:花の色はたゞひとさかりこけれども返す返すぞ露はそめける<たかむこのとしはる>
“さがりごけ(下がり苔)”とは妙な名ですが、“サルオガセ(猿麻?)”のことだと聞けば納得します。地衣類で、とろろ昆布がわわけ下がったみたいな形状ですから“下がり苔”なのでしょう。その奇妙なものは第二句から第三句にかけて潜んでいます。“一盛(ひとさか)り濃(こ)けれども”に放り込むとはまずまずの出来栄えでしょう。お題が珍奇であることも考慮して、多少は躊躇しつつも・・・思い切って座布団差し上げちゃいましょう。

  にがたけ:いのちとて露をたのむにかたければ物わびしらになく野べの虫<しげはる>
“にがたけ”は“苦竹”で、ほろ苦い食用筍を産する竹のことです。決して“毒キノコ”のことではありません。さて、その“にがたけ”は第二句の最後の一文字から第三句にかけて見えます。“頼(たの)むに難(かた)い”の中に忍ばせている点は評価に値するのですが、歌がもう一つ巧くないのではないでしょうか。なので、拍手のみにしておきます。

  かはたけ:さ夜ふけてなかばたけゆく久方の月ふきかへせ秋の山かぜ<かげのりのおほきみ>
“かはたけ(川竹)”は、単純に川辺に生えている竹と理解したいのですが、詠み人が「おほきみ」なので、清涼殿東庭の御溝水(みかはみづ)の傍らに植えられた竹のことかもしれません。何れにせよ、さすがは「おほきみ」でありますなぁ。「小夜更けて 半ばたけ行く」月を「吹き返せ」と山風に命令しとります。おっと、そんなことより、お題は何処だか分かりますよね。その第二句の“なかばたけゆく”の中です。出来栄えはどうであれ、実現不可能な命令を下す「おほきみ」に呆れて、思わず座布団一枚取り落としてしまいました。手から離れてしまったからには差し上げざるを得ないということですな。

  わらび:煙たちもゆとも見えぬ草の葉をたれかわらびと名づけそめけん<真せい法師>
駄洒落としてなら拍手ぐらいはしますが、物名(もののな)という遊びとしては成立していないでしょう。選者の間違え(或いは、勘違い)でここに入り込んでしまったのではないでしょうか。それとも、私の方の理解不足? ままよ、私が審査員なのですから、論外ということで、次に行きましょう。

  さゝ・まつ・びは・ばせをば:いさゝめに時まつまにぞ日はへぬる心ばせをば人にみえつゝ<きのめのと>
課題は四つもありますが、どれも説明は不要でしょう。二文字の題が三つに四文字のが一つで、個々のお題としては単純ですが、四つとなるとかなり大変です。私なら端から諦めちゃいますな。お題はそれぞれ、“いさゝめに”、“まつまにぞ”、“日(ひ)は経(へ)ぬる”、“心ばせをば”の部分に散りばめてあります。「きのめのと(紀乳母)」では誰のことだか分かりませんが、友則や貫之の近くに居た人だろうと想像します。よっぽど暇だったのかもしれませんが、よくもまぁ四つものお題を歌に嵌め込んだものです。出来栄え云々の前に座布団差し上げちゃいます。いや、決して女性に甘いのではありませんよ。くれぐれも誤解なさらないように。

  なし・なつめ・くるみ:あぢきなしなげきなつめそうき事にあひくる身をば捨てぬものから<たゞふさがもとに侍りける兵衛>
今度は三つの課題です。“あぢきなし”、“嘆(なげ)きなつめそ”、“あひくる身をば”にお題が入っています。「兵衛」ですから、普段は皇居の門を守っていて、天皇の御幸ではその身辺警護に当たる兵士のことだと思います。名も無い兵士が三つものお題をこなした点を高く評価して、これにも座布団を進呈します。えっ? 女性でもないのに「甘い」ですと? だから言ったでしょう? 私は決して女性に甘いのではないのですよ。

  からこと:浪の音(おと)のけさからことにきこゆるは春の調(しらべ)やあらたまるらん<安部清行朝臣>
「からことといふ所にて 春のたちける日よめる」という題詞がなければ、さっぱり訳が分からないお題ですが、“からこと”というのは地名のようです。そのお題は第二句に収まっています。立春ならではの詠い込みですなぁ。歌は取り立てて褒めるほどではないのですが、際立った季節感を評価して大きな拍手を送ります。

(墨滅歌)おきのゐ・みやこしま:おきのゐて身を焼くよりもかなしきは宮こ島べの別れなりけり<をののこまち>
お題は二つとも地名だと思われます。四文字と五文字の二つのお題と聞くと一瞬ぎくっとしますが、この作品にはそのような緊張感はありません。初句の“おきのゐて”も第四句の“宮こ島べの”も「そのまんま」と酷評すべきでしょう。白状すると、私、小野小町の歌が嫌いなんです。古今和歌集に幾つか収載されていますが、何処となし高慢ちきな雰囲気が漂っていて面白くないのです。という訳で、次へ参ります。ええ、嫌いな女性歌人もいるんですよ。これで、「決して女性に甘いのではありません」という私の言い分を信用していただけるのではありませんかな?

  いかゞさき:かぢにあたる浪のしづくを春なればいかゞさきちる花と見ざらむ<かねみのおほきみ>
このお題も地名で、第四句に詠い込まれています。無難な出来といったところでしょう。それにしても、「おほきみ」らしいおっとりとした歌ですな。と言うか、のっぺりしていて取り留めのない歌とも言えましょうか。どうも、お題が御し易い響きの詞であるように思います。それでさらっと作られてしまったのでしょう。どうであれ、その程度の評価でしかありません。

  からさき:かの方(かた)にいつからさきにわたりけん浪路はあとも残さざりけり<あぼのつねみ>
近江八景(「比良の暮雪」、「矢橋(やばせ)の帰帆」、「石山の秋月」、「瀬田の夕照」、「三井の晩鐘」、「堅田の落雁」、「粟津の晴嵐」、「唐崎の夜雨」)の一つに数え上げられた“からさき(唐崎)”がお題です。第三句に分かり易く入っています。余りに分かり易いので「そうですか」としか言い様がありません。

  からさき:浪の花おきからさきてちりくめり水の春とは風やなるらむ<伊勢>
一つ前と同じお題ですが、こちらの方が好きですなぁ。なんたって、私ぁ伊勢の大ファンなんです。彼女の歌なのですから、多少の難点があっても評価しない訳にはいきますまいて。お題は第二句に見えます。これも分かり易いには違いありませんが、湖面に季節の有様を感じるなんざ風流ではありませんか。はい、さっきの小野小町とは正反対の態度です。痘痕も笑窪ですよ。安易な発想でも、歌(あるいは、詠み人)が好ければそれでいいんです。はいはい、何と非難されても動じることはありませんとも。もう一度言いますけど、私ぁ伊勢の大ファンなんですよ。

  かみやがは:むばたまのわが黒かみやかはるらん鏡のかげにふれる白雪<つらゆき>
“かみやがは(紙屋川)”は京都の鷹峰(たかがみね)から流れ出している川です。北野天満宮の脇を流れ、その先は天神川と呼ばれますが、最後には桂川に合流します。それはそれとして、第二句から第三句にかけてお題を収めています。上級者のさらっとしたテクニックと言えるでしょう。貫之なら出来て当然ですから、ここはさり気なく拍手のみとしておきましょう。

  よどがは:あしひきの山辺にをれば白雲のいかにせよとかはるゝ時なき<つらゆき>
これもなかなかのテクニックです。第四句から結句の頭にかかって“よどがは(淀川)”が入っています。いつもいつも上級者だからといって拍手だけでは気の毒です。先ほどのと合わせて座布団一枚差し上げることに致しましょう。

  かたの:夏草のうへはしげれるぬま水のゆく方のなきわが心かな<たゞみね>
まぁ、三文字のお題ですから、さらりとこなしたといったところでしょう。壬生忠岑もまた上級者ですし、“かたの(交野)”(地名)は使い易い音だと思われますから、この程度で高い評価を与える必要はないと思います。

  かつらのみや:秋くれど月のかつらのみやはなる光を花とちらすばかりを<源ほどこす>
中国には、月にカツラという木が生えているという俗説があるそうです。それを捻ってあるのですが、何だかわざとらしい歌ですなぁ。お題のこなし方も、“桂の宮”を“カツラの実や”に読み替えただけのものですから、「はぁ、そうかもしれませんなぁ」としか言い様がありません。だから、素っ気ないようですが、拍手もなし。

  (墨滅歌)そめどの・あはた:うきめをばよそめとのみぞのがれゆく雲のあはたつ山の麓に<あやもち>
“そめどの(染殿)”というのは藤原良房の邸宅のことだそうです。“あはた(粟田)”は地名。“そめどの”の処理はまずまずで、第二句の“余所目(よそめ)とのみぞ”に組み込まれています。しかし、“あはた”の方は第四句の“雲のあは立(た)つ”ですから評価の対象外でしょう。二つのお題のうち一つが失敗作なので、「NG」と言う外ありません。残念!

  百和香(はくわかう):花ごとにあかず散らしし風なればいくそばくわがうしとかは思ふ<よみ人しらず>
“百和香(はくわかう)”というのは端午の節句に調合したお香なのだそうです。さっと読んだのでは見逃してしまいますが、お題は第四句から結句に亘って隠されています。よくもまぁ、こんなみょうちきりんな音の詞を詠い込んだものだと感心させられますが、肝心の歌がもう一つ面白くない。それに、お題の潜み方が巧妙と言うよりはお題を探すのが面倒臭いと言いたくなりますので、疎らな拍手で我慢していただきましょう。

  すみながし:春霞なかしかよひぢなかりせば秋くるかりはかへらざらまし<しげはる>
“すみながし(墨流し)”というのは、水面に流した墨汁が描く模様を紙に写し取ることだと思っていましたが、紙に書いた文字や絵を水面に浮かび上がらせる遊びのことでもあるそうです。何れにせよ、暇な貴族の遊びであります。お題は初句から第二区にかけて見えます。まずまずの潜ませ方だと評価できますが、“長し通い路”なのか“中し通い路”なのか分かり難いように、若干の無理が見えることも事実です。歌はまぁまぁ綺麗なので、拍手だけは惜しまないでおきましょう。

  おき火:流れいづる方だにみえぬ涙がはおきひむ時やそこはしられん<みやこのよしか>
“おき火(熾火)”だの“おき(熾)”だのは、もはや年寄りにしか理解できないものになってしまったことでしょう。炭や薪を使わなくなった今日では使われなくなった言葉だからです。お題は、第四句の“沖干(おきひ)む時や”に紛れ込んでいます。それにしても大袈裟な歌ではありませんか。底知らずの悲しみに泣き崩れているにしても、アメリカ漫画じゃあるまいし、涙が川になって堪るものですか。でも、ここまで誇張する根性を認めて座布団一枚。

  ちまき:のちまきのおくれて生ふる苗なれどあだにはならぬたのみとぞきく<大江千里>
初句にドンとお題が陣取っています。歌は、「遅蒔きの稲の“田の実”」と「徒(あだ)にはならぬ“頼み”になる後輩」が掛かっている手の込んだものです。お題はシンプルですが、歌の技巧に免じて座布団を差し上げます。大安売りの感がしないでもありませんが、まぁいいでしょう。

  ながめ+α:花のなか目にあくやとてわけゆけば心ぞともに散りぬべらなる<僧正聖宝>
題詞に、「はをはじめ るをはてにて ながめをかけて時の歌よめ」とあります。“ながめ”を嵌め込むだけでなく、最初が“は”で最後は“る”になるように季節の歌を仕上げなければならないのです。制約が多いほど難しいのですから、これも難問だと考えるべきでしょう。“ながめ”は初句から第二句にかけて入っています。その他の指定事項も見事にクリアしています。歌そのものも綺麗に仕上がっていると思います。最後の歌でもありますので、ハナマルと座布団と拍手を進呈します。

 いや、最後の方は惰性で座布団連発になってしまいました。なんとなく疲れてしまったからでしょうか。勿論、楽しみ過ぎての疲れですから不快なものではありません。それにしても、平安貴族たち(中には貴族ではない人もいるようですが)の遊び好きに現代人が付いて行くのは結構大変だということが分かります。私などは大喜利の川柳のレベルで満足しておかなければならないことを確認できたということであります。と、一つ賢くなったところで、今日はお仕舞い

(2005年3月11日)


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