アーカイブド・エッセイ

2004年月日〜2004年月








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タイムマシンがあったらなぁ<その3:イザナギ、イザナミ>

 今、蛇に取り付かれている。と言っても、“狐憑き”の如き陳腐なオカルト話を始めようという訳ではない。正確に表現するなら、「蛇神様が気になってしょうがない」と言うべきだろう。特に心を奪われているのは、日本神話で日本の島々と八百万(やおよろず)の神々を生み出したとされているイザナギノミコトとイザナミノミコトである。この二柱の神の実態は蛇神様ではなかったかという問題に現を抜かしているのである。
 あれこれと書物を読んでいると、イザナミ・イザナミが蛇神だとする研究者もいるようなのだが、その点をきっちりと論証している書物には未だでくわしていない。尤も、飽くまで私の管見によればということなので、実際にはこの点を明快に解き明かした論文が既に発表されているのかもしれない。しかし、たとえそうであっても、それを知らない私にとっては非常に気になる大問題なのである。そこで、この問題について最近私が考えた事どもを、例によって、取り留めもなく書き連ねてみたいと思う次第である。
 予め断っておくが、本文では現代仮名遣いと歴史的仮名遣いを併用する。通常は現代仮名遣いを用いるが、歴史的仮名遣いでなければ論理的な説明が不行き届きになる場合には、予告なしに歴史的仮名遣いを用いるので、この点ご諒解願いたい。

 日本神話を語る記紀の中で、はっきりと蛇身の神だと折紙が付けられているのは大物主神(おおものぬしのかみ)だけだったと記憶している。この神は大神神社(おおみわじんじゃ)の祭神で、大きな袋を背負って因幡の白兎を助けた大国主命(おおくにぬしのみこと)と同一神だとされている(あるいは、されてしまった)神である。イザナギ・イザナミは大八洲(おおやしま)、即ち、大昔の日本人にとっての“世界”の生みの親である。イザナギはアマテラスオオミカミに直結する天神として描かれており、イザナミは、その機能の一部についてはスサノオノミコトによって補完されるが、基本的にはこの大八洲の唯一の地母神として位置付けられている。古代日本の統治権を握り、その上で記紀を著した天孫(てんそん)族が、そんな自分たちの世界の基本となる神が蛇であることを大声で宣伝するはずがない。何故なら、龍蛇神というのは天孫族と共に古代の日本社会を形作っていたが、最終的には天孫族に屈服した海人(あま)族が信奉する神だからである。天孫族が、たとえそんな被支配者である海人族の神をかつぎ上げることがあったとしても、それらをオリジナルの姿で登場させることは支配者としてのプライドが許さなかったであろう。
 大物主神と同神とされる大国主命は最後まで大和朝廷に反抗した出雲の神であり、出雲の神々の基底部に君臨しているのは海人族の龍蛇神である。だから、大物主神は時として大きな祟りを大和朝廷に下すのであり、天孫族もそんな大物主神については、それこそ大物の神でありながら、蛇神だと認めることに躊躇しなかったということなのだろう。しかし、イザナギ・イザナミについてはそうはいかない。実際には海人族の蛇神様がモデルであっても、そのことはさり気なく仄めかす程度に抑えられてしまったのだ。だからこそ、現代の学者たちもきっぱりとした結論が出せずにいるとも言える。神話とは飽くまで支配者の論理で構築された物語だということを示している好例かもしれない。
 天孫族は天からの降臨伝説を信奉するグループであり、降臨伝説は北方モンゴロイドに普遍的に見られるという。一方、海人族は航海術に長けたグループであり、南方の原モンゴロイドの流を汲んでいると考えられる。原モンゴロイドとは、南アジアないしは東南アジアで栄え、最後の氷河期が終わるのを目前にして北方への長い旅に出発した北方モンゴロイドの遠い祖先であるとともに、西はマダガスカル島から東は環太平洋地域に遍く分布した航海の民の祖(おや)と目される種族である。その南方の伝説で特徴的なのは、大洪水後に生き残った兄妹による創世神話なのだという。日本の海人族もそのような創世伝説を伝えていたと考えるべきであり、現に、大和の都からは遠く離れた沖縄地方には、そのような洪水神話が損なわれることなく語り継がれている。
 実のところ、イザナギ・イザナミによる創世神話がそのような南方系の洪水神話の断片であると考えている学者は多いのだ。洪水の「こ」の字も記されては居ないし、イザナギ・イザナミも兄妹だとは語られていないが、確かに、イザナギが天浮橋(あめのうきはし)から天沼矛(あめのぬぼこ)で「塩こをろこをろに」掻き混ぜたという下界の様は洪水そのものを描いているとしか思えない。このような側面に特に注目した上で日本神話を端的に評するなら、「北方モンゴロイド系の創世神話を基調としつつ、南方の原モンゴロイドの神話の断片をも抱合している」ということになるのである。
 もし、イザナギ・イザナミ神話が南方の伝説の断片を含むのであるなら、イザナギとイザナミ自身が南方系の流を汲む海人族の神であっても全然おかしくはない。また、その神が蛇神であると考えることにも大きな根拠があると言わなければならない。海人族の神が龍蛇神であることは誰しもが認める事実であるし、何故、彼らが龍蛇神を信奉していたのかという命題には明快な答があるからである。原モンゴロイド発祥の地の近辺では、南はインドネシアから北はネパールに至るまで、共通の蛇神様が祀られているのである。呼び名は民族や地域によって少しずつ変異していったであろうが、その神は通常“ナーガ”と呼ばれている。この“ナーガ”というのはパーリ語及びサンスクリットで“蛇”のことだそうだ。パーリ語あるいはサンスクリットが基本的な名前に用いられているということは、この神が太古のインドで生まれたということを表していると思われる。正確な起源は本文の主題に関係ないので置いておくとして、この神はインド周辺の各地に伝播し、どの地域でも崇められてきた。それらの伝播先には土着宗教が既に存在していたであろうが、ナーガ神は漏れなく定着した。後に、これらの地域でバラモン教・ヒンドゥー教や仏教が支配的になっても、蛇神様であるナーガが忘れ去られることはなかった。それほど強固に受け入れられ、従って、大きな影響力を持っている神なのだから、その分布地域から黒潮あるいは対馬海流に乗って日本列島にやってきた日本人の祖先の一つと目される原モンゴロイドの一派も、この神を忘れることはなかったに違いない。海人族の神が龍蛇神であるのは当然のことだと言い切っても間違いではないと思う。
 しかも、このナーガ神には“ナーギニー”という后がいる。イザナギ・イザナミと同じカップルの神なのだ。日本本土に僅かながら語り継がれた洪水神話の断片中に生き残った創世主から、元は兄妹だった夫婦だという側面が削り取られた理由を、このナーガとナーギニーの夫妻神の介在に求めることも不可能ではあるまい。益々持って、イザナギ・イザナミが蛇神様だったという思いが深まる。ナーガは水の神であり、水とは命の源そのものである。カンボディアには特に濃密にナーガ信仰が分布しているそうだが、そのカンボディアで定型的に用いられる図柄にナーガ神とその上に茂る“生命の木”というモチーフがあるそうだ。「宣(むべ)なるかな」と頷きたい。水の神は命を生み支える。イザナギ・イザナミがナーガの末裔だとすれば、彼らが世界(大八洲という大地)を生み、八百万の神という万物の精(命)を生んだとする古代日本人の発想には大きな根拠が見出せることになるからである。
 命の誕生ということからであろうか、あるいは蛇そのもの生命力が蛇神様への信仰の一つの要素だということなのだろうか、東南アジアに残されたナーガ神の像には蛇の交尾を思わせるものが多く見られる。日本にナーガそのものは残っていないが、私は、日本にもその名残として蛇の交尾を模(かたど)り、神聖視されているものが残っていると思う。それは注連縄(しめなわ)である。注連縄を作るには二つの要件があり、一つは縄を左縒り(ひだりより)にすることであり、もう一つは縄尻を切りそろえることなく、端に余った藁を縒り目に極め込んで縄尻を完成させることである。出来上がった縄の片端は、捻り飴のように絡み合って交尾する二匹の蛇の尻尾部分のような形状になるのである。この二番目の要件は、上代において、注連縄のことを“しりくめなは”と呼んだ所以である。しかし、後述するように、古代人にとって“なは(縄)”という詞が蛇という概念に直結したものであるなら、いま一歩大胆に推論して、この表現は「尻を組み合わせた(二匹の)蛇」とも読み取れるように思う。神聖な神の庭に恭しく掲げられた注連縄に、大らかに睦み合う太古の蛇神ナーガとナーギニーの姿を思い浮かべるのは不謹慎だろうか。
 ことのついでに更に空想的な考えも述べておこう。スサノオの八岐大蛇(やまたのおろち)退治については様々な解釈がある。川の氾濫を治めたことを表すとか、支配者たる大和朝廷が製鉄技術を牛耳ったことを示すとか言われているのだが、私は文字通りの“蛇退治”でも構わないのではないかと思っている。勿論、諸学の意見を否定する根拠などない。それらの可能性も認めた上で、別の解釈も成り立つと考えているに過ぎない。東南アジアのナーガ像の多くは多頭の蛇の姿になっている。その頭の数は必ずしも一定ではないようだが、多頭である点に目を向けたいのだ。日本の海人族が伝え聞いた龍蛇神も多頭であったかもしれないと思えるからなのである。八岐大蛇が多頭のナーガのことだと考えると、八岐大蛇退治とは、とりもなおさず、大和の天孫族による出雲の海人族の征服を意味すると解釈できるのではあるまいか。ここで、イザナミが蛇神かもしれないということやオロチを退治したスサノオがそのイザナミを慕っていたということを気にすることに意味はない。記紀神話は征服者たる天孫族が構築したものだ。征服者が被征服者をどのように描こうが彼らの勝手なのだ。彼らにとってイザナミは既に被支配者の蛇神様ではなくなっていたし、スサノヲも完璧な天孫族の神の座を占めているである。登場してくる人物や神の大元の性格がどうであれ、また、物語の時間経過に矛盾があろうが無かろうが、征服者たるものはそんな些細な事柄など気にしないものなのである。

 “イザナギ”、“イザナミ”という名称にも蛇の影がちらつく。私は、音の類似だけで、イザナギの“なぎ”が“ナーガ”そのものだと端から極めて掛かろうとは思っていない。だが、“なぎ”が“長(なが)”に関係していると考えることぐらいは、議論の出発段階であっても許されると主張したい。似たような“なぎ”の例としては“うなぎ(鰻)”が挙げられるだろう。上代にあっては“むなぎ”と呼んだらしいが、鰻の形態からして、その“なぎ”は“ながし(長し)”から来ていると考えられる。“むなぎ”とは“胸黄”であって、この名称は成熟して脂が乗った鰻の腹の色に由来するという説を聞いたことがある。だが、とてもではないが、私には頷けない。養殖物の鰻しか食べたことがないからだと揶揄されそうだが、私だって天然物の鰻を見たことはある。その経験からしても断言するが、全ての鰻の腹が黄色味を帯びているとは限らない。やはり、“むなぎ”あるいは“うなぎ”の“なぎ”は単純に鰻の細長い姿に由来すると考えた方がすっきりする。それに、沖縄地方では海蛇のことを“うなぎ”と呼ぶそうだ。海蛇の腹は必ずしも黄色くはない。この方言は明らかに海蛇の細長い形状に由来している。
 私の想像通り、“うなぎ”が“長し”から発想された名称なら“イザナギ”も長いもの、即ち、この場合は、蛇に因んだ名前だと考えてもおかしくはないだろう。「ならば、イザナギの相方であるイザナミの“なみ”は何だ?」との詰問を受けそうだが、一応、その答は準備してある。私は“なみ”とは“波”だと考えている。渚に打ち寄せる波そのもののことではない。“波状のもの”という意味を表すのだと考えたいのだ。蛇の移動を蛇行というが、蛇行の軌跡は波の形そのものである。蛇は長いだけでなく、くねくねと波形になって素早く移動する。そのことを表現したのがイザナミの“なみ”だと思う。“イザナミ”もまた蛇に因んだ名前だと考えてもよいであろう。
 この点についてもう少し考えてみたい。“長し”という詞と源を同じうする言葉として“なぐ(投ぐ)”とか“ながる(流る)”とかがあるとされている。いずれも長い軌跡を描きながら物体が移動する様を言い表す言葉である。学者は認めないかもしれないが、私はこの概念をもう一歩先に進めたい。“nag”ではなく“na”にこそ“長い”とか“連続する”とか“繰り返す”といった意味合いがあるのではないかと考えたいのである。イザナミの“なみ”の元となったと私が考えている“なみ(波)”もこの類ではないだろうか。“みづ(水)”は複合語では“みなも(水面)”とか“たるみ(垂水)”のように“みな”とか“み”に変化し得る。“なみ(波)”とは“み(水)”の上下運動の連続したものの表現なのだ。海岸で繰り返し“み(水)”が打ち寄せるものだとも理解できる。“なみ(波)”の“み”も“みづ(水)”の“み”も万葉仮名の世界で問題にされる類別の甲類に所属するから、両者は通音だということになる。この発想を否定する根拠はないということになる。
 また、“なは(縄)”も同様に考えることができる。“なは(縄)”の“は”が“端”あるいは“葉”だと考えると、“なは(縄)”とは稲の茎や“葉”のような繊維質を縒り合わせてゆき、“端”に達したら材料を足して繰り返し縒ってゆくもの、分かり易く表現するなら、“葉”あるいは“端”が延々と繋がったものを言い表すと考えられるであろう。このように、“na”という音が繰り返すといった概念を示す様々の言葉に用いられていることを、ただの偶然だと看過してよいものだとは思わない。因みに、“なむ(並む)”や“なふ(綯ふ)”という動詞は“なみ(波)”や“なは(縄)”という名詞から派生した言葉であり、このように単純な名詞から複雑な動詞を生み出している言葉は極めて古い言葉(ある言語のなかで最も基礎的な語)だと考えるべきであるという側面も指摘しておきたい。
 このような古い言葉は極めて単純な音あるいは音群で何らかの概念を表していると考えられるのである。例えば、水に濡れることを言う“ひつ(漬つ)”と乾くことを表す“ひる(干る)”あるいは“ふ(干)”は正反対のことを言いながら“ひ”という音(あるいは、“ひ”や“ふ”といった類音)を共通の語幹を持つ(“ひつ(漬つ)”の“ひ”が甲乙いずれの類に属するのか同定されていないため、両者が通音だと断定できないのは残念なことだが。) “ひつ(漬つ)”の類語としては“ひづつ(泥)”があり、濡れた土のことをいう。ひつ(漬つ)”や“ひる(干る)”が他動詞になると“ひたす(漬す)”や“ほす(干す)”になる。とにかく、“ひ”、“ふ”、“ほ”という“p”という子音(現代語において“h”で発音される音は、上代では“p”の音だった。因みに、平安時代では“f”だった)を共有する類音が湿気あるいは水気の有無に関係した語を構成していることは間違いなさそうなのだ。通説として、“ほす(干す)”は“ほ(火)”と同源だとされているが、“ほ(火)”は水に対置すべきものであるから、この“ほ(火)”という詞も「“p”音(現代語の“h”音、平安時代の“f”音)によって構成される湿気あるいは水気の有無に関係した語」に含めることができるだろう。“na”に “長い”とか“連続する”とか“繰り返す”といった意味合いがあると考えることは、さほど突飛なことだとは思えないのである。
 ところで、“na”に拘って“なは(縄)”という一見主題とは無関係な言葉にまで論及したのには、それなりの理由がある。大昔には蛇のことを“くちなは”とも言ったからである。通説では“くちなは”とは“朽ち縄”のことだということになっている。その通り“くち”が“朽ち”であったかどうかは深く追求しないが、先に言及した注連縄が蛇を模ったものであることからも言えることだが、古代人が縄というものを蛇に見立てていたということが明らかである点は押さえておかなければならない。縄目を真横から見て、表側も裏側も連続してたどれば波線になる。蛇に見立てた縄からも“なみ(波)”が導き出されるのは偶然だろうか。このようなことは歴史的遺物にも見出すことが出来る。縄文土器の縄目紋様は短い斜線が規則的に連続した(並んだ)ものだ。わざとらしく言えば、紋様が“長”く“波”状に並んだものだということになる。縄文人が“なが”と“なみ”を意識していたのかどうだか知る由もないが、ただの偶然にしては出来過ぎた話のように思えてならない。
 さて、次に“へび(蛇)”という言葉に拘ってみたい。古くは“へみ”と言ったそうだが、“b”と“m”は近縁の音だから、この変化は驚くには当たらない。それより、この“へび”または“へみ”と同源の言葉が面白い。生き物では南島にいる毒蛇である“はぶ(波布)”があり、海の魚である“はも(鱧)”もそうらしい。無生物には“ひも(紐)”がある。これらの詞の類縁性については納得するが、ここに、腑に落ちないことがあるのだ。それは、“なは(縄)”より細い“ひも(紐)”が“へみ(蛇)”と同源だと学者は認めているのに、より蛇に似ている“なは(縄)”という言葉が直接的に蛇という言葉と関係があるとはされていないことである。古代人が“なは(縄)”を蛇に見立てたというよりは、古代人は“なは(縄)”を蛇と殆ど同義だと捉えられていたと考えたくなるのだ。学者がそのような説を提出しないということは、古文献にそのような用例がないからであろうが、全ての古文献が現在まで保存されてた訳ではない、というより、残されたものの方が失われたものより多いのだから、そのような可能性を否定し去ることはできない。また、歴史時代の黎明期には既に忘れ去られてしまっていた太古の言葉については用例など残るはずも無い。
 上で論じたように、“なが(長)”も“なは(縄)”も“na”という音を源とする同根の詞だとするなら、“ひも(紐)”と“へび(蛇)”が同根であることから、“なが”や“なぎ”は蛇そのものを表していたのではないかと考えることができよう。これについては歴とした学説もある。先に触れたように、沖縄方言で海蛇のことを“うなぎ”ということから、“なぎ”あるいは“なが”とは蛇のことだとする説である。その提唱者によると、かの“草薙剣(くさなぎのつるぎ)”とは“くそながのつるぎ”なのであって、“獰猛な大蛇の剣”という意味なのだそうだ。私にとっては歓迎すべき学説であるし、そんな学説があるのなら、素人たる私はもっと大胆な仮説を提唱したい。ここで論議したとおり、“na”という音が“長い”とか“連続する”とか“繰り返す”という概念を表すとすれば、その“na”あるいは“nag”という音は細長い蛇を神格化した神の名である“ナーガ”という言葉に由来するのだと考えたいのである。
 日本語の起源については諸説紛々として未だ結論を得ていない。そんな状況の中にあって、私の興味を強く引く学説がある。それは、日本語の起源(複数の起源の一つかもしれないが)はタミール語あるいは、それを内包するより大きな括りとしてのドラヴィダ語だとする説である。この言語は太古の昔にインドに暮らし、やがて後続のアーリア系インド人に南へと追いやられた諸族の言葉なのである。現在では、それらの人々はセイロン島の一部を含むインドの南端部近辺に分布している。“ナーガ”という神名はパーリ語ないしサンスクリットだが、その神の起源はアーリア系インド人の侵入以前に遡ることができると考えられる。然らば、その神を生み出した民族はドラヴィダ語を操る人達だと推察できる。もしこれらの学説や想像が事実なら、日本語の基本的な造語素のルーツの一つとしてドラヴィダ語を据えても構わないだろう。特に、“na”あるいは“nag”の語源をこの言語を用いる人々が生み出した神である“ナーガ”に求めても間違えとは言えないであろう。私には、“長し”の語源は“ナーガ”だとしか思えない。
 なにやらややこしくも謎めいた話になってしまったが、要するに、イザナギ・イザナミが蛇神様であったという考えを根拠のない妄想だと切り捨てることはできないということを言いたかったのである。イザナギ・イザナミ神話がはるばる遠い南方から舟でやってきた古代人の記憶を含んでいるのであれば、イザナギ・イザナミが蛇神様だということは「有り得る」どころではなく「その可能性が濃厚」と言うべきかもしれないのだ。而して、古代日本人が南方の原モンゴロイドの特徴を色濃く備えていたことは毎度お馴染みの「魏志」倭人伝からも明らかなのである。ここでは二つの事柄を取り上げたい。
 一つは刺青である。倭人は顔面を含めて体中に刺青をいれていたとある。刺青というのはどう考えても南方の風習だ。分厚い衣類や毛皮を着込んで目だけ出して過ごすような寒冷地では、体に刺青を彫ったって面白くも何ともない。誰の目にも触れないのだから、宗教的な要素を含めて如何なる社会的な意味をも持たせることはできないのだ。個人的な魔除けという意味合いなら考えられると言う人もいるかもしれないが、そんな考え方は古代社会には通用しないと思う。集団として存在してどうにか厳しい自然界で生き抜くことができたヒトの古代社会で、個人主義など絶対に育たない。個人主義は現代人にしか理解できない概念だと断言する。刺青は、半裸で過ごせるような熱帯・亜熱帯や作業中には片肌でも脱ぎたくなるような温帯でなければ、習俗として芽生えることはないと言い切ることができると思う。
 もう一点は“禊(みそぎ)”という風習である。倭人は薄汚れることを厭わずに物忌みし、穢(けが)れを祓うために禊をすることが記されている。“けがれ(穢れ)”とは“気枯れ”あるいは“気離れ”であって、何れにせよ、生命の源たる精気が肉体から抜けてしまうことを意味するとされている。“禊(みそぎ)”というのはその“けがれ”状態を水の霊力(あるいは、生命力)を以って削ぎ落とす(または、“けがれ”状態から復活する)ことで、“身濯ぎ”あるいは“水濯ぎ”だと考えられている(“みそぎ”の“み”が甲類なのか乙類なのか判明していないので、乙類である“身”と甲類である“水”の両者が候補として掲げられている。) ポイントは“けがれ”という概念と“水の霊力による復活”という志向性と“沐浴”という行為であるが、沐浴などという行為は熱帯雨林のような水が溢れた地域でしか生じ得ないだろう。北側はツンドラ地帯に接しているような北方の草原などで、たとえ水に霊力を感じたにせよ、沐浴しようと思う変人は古代であっても居るとは思えない。現に、東南アジアには水を命の源として捉えた水掛祭りが盛大に執り行われているが、ツングース系の人々がずぶ濡れになるまで水を掛け合うなんて話は聞いたこともないし、想像すらできない。
 このように、古代日本人の習俗の中で、刺青と禊(みそぎ)だけを見ても、日本人のルーツの大きな柱を南方に見出すことができるのである。支配者たる北方系の天孫降臨伝説に敗者である南方系の蛇神様が紛れ込んでいたとしても、それ程に驚くには当たらないということなのだ。いや、そのような消極的な考えは当たっていないかもしれない。支配者たる天孫族も、圧倒的に長い歴史を有し且つ日本列島に濃密に分布していた海人族の伝承を消し去ることは出来なかった、あるいは、自分たちの神話体系にそれを取り込まざるを得なかったというのが真相であったと考えるべきだろう。

 これまでに述べた話に納得していただけるかどうかはさて置き、やや趣を変えて、話を進めよう。南紀熊野にイザナミノミコトの墓があるという。毎年、朝鮮半島風の派手やかな祭りを執り行っている。しかし、古事記によれば、イザナミは黄泉の国へ行ったとされており、その黄泉の国とは出雲にあるらしいのである。出雲と南紀では随分と離れている。一体どちらが本当なのだろうか。南紀と出雲のいずれにも存在するものには、イザナミの葬られた場所以外に熊野神社もある。出雲には四柱の大神が坐して、熊野の大神はその中の一つである。言わば、大物中の大物の神様なのである。一方、南紀の熊野も大和朝廷の信仰篤い大社である。どちらが本家本元なのか学者の議論も分かれているようだ。私も、長い間、イザナギの墓と熊野神社についてどちらが“本家”なのだろうと考えてきた。しかし、蛇神様のことを考え始めてからは、何れの問題についても、「どちらでもいいや」と思うようになった。
 「どうでもいい」と投げ出した訳ではない。「どちらもが“本物”であって構わない」と思うようになっただけである。古代の日本には数多くのイザナギ・イザナミがいたに違いないと思うようになったからだ。記録に残っている海人の集団だけでもその数は随分と多い。日本各地に地名としてその名を残した安曇の一族がいた。北九州から瀬戸内に掛けて勢力を張っていたであろう宗像の一党も大きな勢力を持っていた。海彦・山彦伝説の内容から推察するに、南九州の隼人の仲間にも海人集団がいただろう。一部は安曇氏と重なっていたかもしれないが、出雲の権力者たちは日本海から中国大陸、朝鮮半島、南島に至るまでを日常の行動範囲としていた海人集団を率いていた。古代の主要な海路の一つであった瀬戸内海を望む四国や淡路島にも海人の一群がいたであろう。南紀にも物部氏系統の海人集団がいたことは確かだ。伊勢あるいは伊勢湾周辺にも別系統の海人集団がいたようだ。とにかく無数の海人集団が居たに違いない。それらが離合集散を繰り返すうちに、幾つかの同祖同属を標榜する集団として定着していったのであろう。それら海人集団の奉じる神々は、基本的には共通の祖先である原モンゴロイドの神々であり、集団が異なっていても奉ずる神々は基本的に同じであったと考えられる(祭祀方法はかなり違っていたであろうが。) だが、大和朝廷による支配が確立した後には、その神々は様々に変質させられて多数の異質の神へと分化されていったことであろう。イザナギ・イザナミはそれらの中で原初の姿を色濃く残した神だったに違いない。即ち、イザナギ・イザナミのモデルは各海人グループに一組ずつ存在していたと考えるべきなのだ。だから、神でありながら死んでしまったイザナミは色んな地域の海人族によってそれぞれに葬られたのである。
 よくよく考えるまでもなく、出雲も南紀も海人グループの拠点であり、いずれにおいてもその先住民は大和朝廷に頑強に抵抗したことが窺われる。先に述べたように、出雲は最後まで大和朝廷への服属を拒んだ海人を主体とした勢力の地だ。また、神武天皇の東征譚では、ナガスネビコの抵抗にあって西からの侵攻を諦めて熊野からの大和進出を計った神武天皇は、奇怪な熊の神によって手酷い目に遭ってしまったとされている。この話は南紀に大和朝廷に抵抗した強力な勢力があったことの神話的な表現である。その抵抗勢力が海人族であったことに疑問はない。出雲の海人が日本海沿岸の各地にその足跡を残したように、熊野の海人も太平洋沿岸の其処此処へと航海していた形跡がある。後の世のことだが、源義経が瀬戸内で平家を打ち負かしたのは、弁慶が説得して源氏に味方した彼の同属である南紀水軍の力があったからだった。よく知られているように、進んだイワシ漁の方法や醤油の製造法は紀州で生まれ、南紀の海人によって関東に伝えられたものだ。それほどに優れた航海技術を発達させていた南紀の海人の起源はかなり古いと考えなければならないのだ。
 出雲や熊野といった強力な海人族の拠点のそれぞれで、イザナギ・イザナミが手厚く祀られたであろうことは想像に難くない(名前はそれぞれ“イザナミ”、“イザナミ”とは異なっていたかもしれないが。) それぞれの地にイザナミの墓があっても何の不思議もありはしないのだ。また、その葬礼様式が朝鮮半島風であっても、これまた、不思議ではない。南紀あるいは生駒山の麓にいた海人族は後に物部氏の一派を成すことになるが、この物部氏はニギハヤヒノミコトを始祖としており、ニギハヤヒノミコトは天皇家の始祖とされるニニギノミコトより先に天から降臨したとされている。即ち、後の世で物部氏と呼ばれる古代大和の広範囲に分布していた氏族は、大和朝廷を築いた北方系渡来人より先に日本列島に進出して南方系海人族と融和していた先着の北方系渡来人だったと考えられるからである。北方系渡来人と完全に融和していた海人族が朝鮮半島式の祭りを受け入れていてもおかしくはないのだ。ところで、“大和朝廷を築いた北方系渡来人”と言ったが、勿論、彼らも日本列島に元々住み着いていた人々と既に融和していた。要するに、大規模な北方系渡来人の日本上陸は複数回に及び、それぞれが日本列島にやってきた時期と現地人との融和の程度は異なっていたということであり、また、それらの集団が入り乱れて覇権争いをしていたということなのである。
 イザナギが放ったらかしになってしまったので、少々補足しておかなければならないだろう。イザナギは死んではおらず、国生みの役割を完全に終えた後に、淡路に鎮まったとされている。この淡路島だが、古代にあっては重要な地点であったようだ。大和と朝鮮半島を結ぶ航路中にあり、大和に最も近い停泊拠点の一つであったと考えられる。後には難波津も開かれるが、難波は葦が生い茂る湿地地帯で、上代以前には外洋航海の拠点とは成り得なかった。実際、日本書紀などの記述からは、朝鮮半島からの渡航者が一時的に淡路島に留め置かれたらしいことが窺えるのである。そんな淡路島に住み着いていたのは、当然のことながら、海人族だっただろう。日本列島と朝鮮半島とを結ぶ航路で船を操ったのは海人族だ。天からの降臨伝説を持つ北方系の人々に外洋航海が無理であることに疑問の余地はない。これは私の想像に過ぎないが、朝鮮半島にも南方系の海人がいたではあろうが、より活躍したのは日本の海人族だったように思う。それはともかく、淡路島もまた海人族の拠点であることに間違いはない。イザナギがこの海人族の地に御霊を鎮めたとする伝承からも、イザナギが蛇神様であったことが窺えると言えるだろう。
 イザナミに複数の墓があってもおかしくないという話に戻るが、そもそも、神話に登場する神や人が単一の神格や人格であるなどと単純に思い込んではならないと考える。以前に論じたが(「タイムマシンがあったらなぁ <その1:カモ氏>」、2004年8月16日)、ヤマトタケルノミコトなどは数十人あるいは数百人の武人や山師の活動を集約することによって創出された架空の人物だ。スサノオノミコトにしても、よく言われるように嵐の神格化という側面もあるだろうし、大和朝廷に手強く対抗したが最後には屈服した出雲のスサの地の男(を)、即ち、飯石郡の須佐の社に祀られた“須佐の男(すさのを)”という伝説的な人格も含まれているだろう(これは私だけの空想だと思っていたが、学説としても提出されているらしい。) このような複雑怪奇に構築された神格や人格の葬地を、名前が単一だというだけで、たった一つに限定しようとすること自体が無謀なのではあるまいか。私は、イザナミの墓が複数あるのは、イザナギ・イザナミというカップル神が、多くの海人族グループの共通の神であったナーガ神の表現形であったとする考え方の一つの証左になるのではないかとすら考えている。

 軽い気持ちで書き始めたのだが、存外に長い文章になってしまった。そろそろ切り上げなくてはなるまいが、一つだけ触れておかなければならない問題が残っている。“なぎ”と“なが”についてあれこれ論じた以上、イザナギ・イザナミ両神の名前の頭に冠せられた“いざ”を放ってはおけないだろう。素人なのだから、よく分からないことには頬っ被りをしておけばいいのかもしれないが、それでは何やら落ち着かない。これといった確信に満ちた結論を得ている訳ではないが、考え付くことを述べておきたい。“いさ”あるいは“いざ”という音には少なくとも二つの意味合いがあるとされている。一つは禁止あるいは拒否の“いさ”である。“いさむ(諌む/禁む)”という動詞は禁止を意味する“いさ”から派生したという。“いさかふ(諍ふ)”とか“いさふ(叱ふ)”も同源らしい。また、“いさよふ(漂ふ)”という「躊躇する」ことを表す詞もそうだという。
 もう一つは、“いさぎよし(清し/潔し)”とか“いさをし(勲し)”とか“いさむ(勇む)”の“いさ”だが、どうも、この“いさ”とは「心根」あるいはより抽象化された概念である「物の本質」といったような意味合いを表しているように思える。“潔し”が“いさ清し”なら「心根が清らかだ」とか「水などが底まで澄み渡っている」という意味にぴったりだし、“勲し”が“いさ雄し”なら「雄雄しい心の持ち主のよう」という概念と一致する。“勇む”はそのまま“いさ”の動詞形で「積極的な心のままに振舞おうとする」ことだと理解できる。
 強いて、もう一つの可能性を考えるなら、人を促す時の“いざ”という詞もある。「いざ、さらば」の“いざ”であり、“いざなふ(誘ふ)”の語源だと考えられる“いざ”である。だが、この“いざ”は感動詞だから名称の頭にかぶせる冠としてはいまいちピンとこない。どうしても先に述べた二つの“いさ”を手掛かりにして考えるしか方策がないようだ。とは言え、いずれも音が少し異なるのが気になる。“いさぎよし(清し/潔し)”の系統の“いさ”が“いざ”になっている例は見当たらないし、“いさよふ(漂ふ)”を“いざよふ”とも言うが、それは鎌倉時代以後のことだというのだ。一方、イザナギ、イザナミの“いざ”は、古事記には“伊耶”と書かれていて、どうしても“いざ”であって“いさ”とは読まないらしい。“さ”と“ざ”の違いなど大きな違いではないようにも思うが、そうなら古事記にも“いさなき”、“いさなみ”と書かれていたことだろう。はっきり“伊耶”と書いてある限り、その文字通りに発音していたと考えなければならない。
 そこで、“耶”という文字について少々考えてみたいのだが、現代人としては、“耶”は“や”あるいは“か”であって“ざ”とは読まない。たぶん、“耶”の元字は“邪”なので、大昔には“じゃ”あるいは“ざ”と読んだのだろう。しかし、“邪”の呉音は“じゃ”だが漢音は“しゃ”だし、現代中国標準語でも“xie”なので、“邪”を“さ”と読んでいたと考えられないのだろうかとの疑問も拭い去れない。しかしながら、兎にも角にも、これは漢字および古語の素人には難し過ぎる問題であって、ここは古文献を具に調べ上げたであろう学者の採用する読み方に従順に従わなければなるまいと思う。
 この“さ”と“ざ”の問題をひとまず棚上げにして考えると、“いさぎよし(清し/潔し)”の“いさ”はイザナギ・イザナミにぴったりだ。「この神の本質は蛇だ」と宣言しているのだから私にとっては持って来いの解釈なのである。しかし、“いさむ(諌む/禁む)”の“いさ”であっても、幾分こじつけっぽいものの、解釈できなくはない。征服者に「蛇であることを禁じられた神」と理解するのである。勿論、私としては、「イザナギ・イザナミ=蛇精」という解釈の方が格段に魅力的であることは言うまでもない。とは言え、“さ”と“ざ”の問題が解決しない限り、いくら魅力的であっても、この解釈を無闇に振り回すことはできない。だが、神名に限らず古代語の解釈については専門家の間でも統一見解がなかなか見出せないのが常である。だから、「イザナギ、イザナミの“いざ”の意味は不明」として打ち切っても恥ずかしくはないだろう。あるいは、「“イザナキ”が“イザナギ”に転訛したように、“イサナギ・イサナミ”が訛って“イザナギ・イザナミ”に変化した可能性が無いとは言えない」と嘯(うそぶ)いて、何となく納得した気分に浸っておいた方が平和かもしれない。
 いやはや、真に以って、タイムマシンがあれば、こんな問題などは簡単に片付くのだが・・・如何せん、タイムマシンは開発されていない。「ちょいと古代の海人の集落へ行って神官なり巫女さんの様子を観察すれば疑問は氷解するだろうに」と歯痒くも苛立つ心を持て余すしかない。尤も、たとえタイムマシンが実用化されていても、今回に限っては、私はタイムマシンに乗ることは遠慮しておこうと思う。誰でもいいから代理人を立ててビデオテープにでも当時の様子を記録してきてもらいたいと思うのだ。何故なら、私は大の蛇嫌いで、蛇の姿を認めたら直ちに逃げることにしているからである。とてもではないが、この私が蛇神様と間近に対峙できるとは思えないのである。如何に抑えきれぬ好奇心を満たすためとはいえ、蛇神様のお相手だけはご免被りたい。とぐろを巻いた海蛇の干物などが祭壇に祀ってあったら、落ち着いて観察などしていられない。益してや、素焼きの土器で生きたマムシを飼っている蛇巫女が、それをひょいと取り出して自分の頭の上に乗せて踊るように拝み始めたら、私は悲鳴を発して走り逃げなければならないだろう。全く、そんな光景を想像しただけで背中がぞくっとしてくるではないか。ということで、寒気を感じたことを汐に、この話はこれまでとさせていただく。

(2005年2月21日)


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“ま”に“てんてん”、“に”に“てんてん”

 誰しも、自分が歳をとったことを認めたくはないものであります。意識的に、あるいは無意識の内に、歳を重ねたことを示す事実に抵抗するのが人の常ではありますまいか。そのような普遍的な人間心理を物語る出来事が身近にありました。その昔は若かった“母”も歳をとると、その“はは”に“てんてん”が付いて“ばば(婆)”になってしまいます。それを嫌ったとある母親が、「私は母ではなくてママです」と宣言したのであります。歳をとって“てんてん”が付くにしても、“はは”ではなくて“ママ”に付くのだと言いたいのですな。日本語には“ま”の濁音はありませんから、“ママ”は歳をとっても“ばば”にはならず“ママ”に“てんてん”にしかならないのであります。“てんてん”が付いても“ママ”は飽くまで“ママ”であり“ばば”ではないという強い主張が貫かれているのでありますよ。
 その亭主はその有様を鼻先で笑いながら聞いていたものでありました。歳をとるとどうしても“てんてん”が付くらしく、“ちち(父)”が老いぼれると“ぢぢ(爺)”になってしまうのですが、彼は「“父”は歳をとっても“父”であって“てんてん”をつける必要などない」と、果敢にも加齢には付き物と思える“てんてん”を認知すること自体を拒否したのでありました。連れ合いの真似をして、「私は父ではなくてパパです」とは言いたくなかったのであります。真似するのが嫌だったこともありますが、どだい、自らを“パパ”と呼ぶことに抵抗があったのでした。自分が“パパ”なるハイカラなものとはどうしても思えなかったと表現すべきなのかもしれません。
 しかしながら、その頑固亭主にも運命の時はやって来ました。彼らの娘に子供が生まれ、否が応でも“お祖父さん(おぢいさん)”と呼ばれる立場になってしまったのです。これは逃れようのない事態であります。孫がいる以上は“祖父(そふ)”という立場を否定することはできません。それに、“祖父”を“爺”と同じく“ぢぢ”と読むのは古来のしきたりであって、歳をとったから“てんてん”が付いたとは認識できないのであります。彼が加齢に伴う“てんてん”を頑なに否定しても何の甲斐もないのです。真に残念なことに、どのように捻くり回しても“お祖父さん”を“おそふさん”とは読めないのでして、“おぢいさん”と読まざるを得ないのでありますよ。そこで、彼は以下に述べる詭弁を弄して“ちち”から“ぢぢ”への不可避的な転身を表面的ではあっても何とか回避しようとしたのでありました。
 たまさか自分自身の血液型がB型であり、生まれた孫もまたB型であったことを利用することにしたのであります。曰く、「B型は歳の差を気にしたくないそうだ。確かに自分もそうであるように思う。この子もB型だが、そんなB型の子供に歳の差を感じさせるような呼び方を教えるべきではない。よって、私のことは“おにいさん”と呼ばせてやるべきだな。」さり気なくそう言ったのでありました。何たる馬鹿馬鹿しい思い付きでありましょうか。家族中の失笑を買ったことは言うまでもありません。しかし、彼は、“ぢぢ”という不快な響きを発する言葉を回避するためには如何なる誹謗中傷にも耐える覚悟を固めて、この主張を断乎として貫いたのであります。
 この妙に意気軒昂たる有様に呆れた家族は、彼のことを「おにいさん」ではなく「“に”に“てんてん”の人」と呼ぶのでありました。言うまでもなく、“に”というのは“おぢいさん”を“おにいさん”と無理やり言い換えたところの本来は“ぢ”であるべき”に”であり、“てんてん”とは歳をとると否が応でも“爺婆(じじばば)”に付いてくる濁点の“てんてん”であります。日本語には“ま”と同様に“に”の濁音はありませんから、“おにいさん”の“に”に“てんてん”が付いても、彼にとっては痛くも痒くもありません。“おにいさん”に“てんてん”が付いても“おぢいさん”にはならないからでありますな。それで、彼は「“に”に“てんてん”の人」という呼称に抵抗することはなかったのでありました。左様、その結果、“てんてん”そのものを否定するという原則的な立場を放棄してしまったということになるのであります。

 さて、この馬鹿馬鹿しい笑い話から私は奇妙なことを考え始めてしまいました。何についてかというと、それは日本語の濁音と半濁音についてであります。この考察も「なるほど」と思える考察に始まって無意味な妄想で終わるという毎度お馴染みのパターンで終わることではありましょうが、まぁ、ちょいと面白い話なので、今日はその話をさせていただこうと思います。なに、大して長い話ではありません。ですから、気楽にお付き合いくださいましな。
 早速ながら主題に入りますが、ご承知の通り、現代日本語には以下の68の音があります;あいうえお、かきくけこ、がぎぐげご、さしすせそ、ざじずぜぞ、たちつてと、だ(ぢ)(づ)でど、なにぬねの、はひふへほ、ばびぶべぼ、ぱぴぷぺぽ、まみむめも、やゆよ、らりるれろ、わ(を)、ん。( )で包んであるのは、文字としては別ですが、他音と同音のものを示します。これらの中の清音と濁音の対応に奇妙な部分があるのですが、読者の皆さんにはお気付きでいらっしゃいますかな?
 “かきくけこ”と“がぎぐげご”、“さしすせそ”と“ざじずぜぞ”、“たちつてと”と“だでど”には発声について密接な対応関係があるのです。“かきくけこ”の“k”と“がぎぐげご”の“g”は、共に、その発声には喉の奥の方が重要な役割を演ずる軟口蓋音ですし、“さしすせそ”の“s”と“ざじずぜぞ”の“z”は共に同系統の摩擦音です。また、“たちつてと”の“t”と“だでど”の“d”は、何れも、歯と舌との関係が決定的な役割を果たす歯音です。音の種類が同じだということは、唇、歯、舌、喉といった発声器官の使い方が同じだということです。分かり易く言うと、“k”と“g”、“s”と“z”、“t”と“d”は同じ口の形、同じ舌の位置と緊張度、ほぼ同じ喉の緊張度で発声できるのです。違いは、子音部分が有声音か無声音かということ、即ち声帯の振動を伴う音かどうかということだけなのです。
 ところが、“はひふへほ”の“h”と“ばびぶべぼ”の“b”あるいは“ぱぴぷぺぽ”の“p”とは音種が異なるのです。“h”は軟口蓋音である“k”や“g”に近い唇には出番のない喉音で、“b”と“p”は唇がなければ出せない唇音なのです。両者の発声方法は大きく異なっているということなのでありますな。“はひふへほ”の中でも、“ふ”だけは上下の唇の間で起きる唇摩擦音なので、音声学(言語学の一部)では唇音に分類されることがあります。確かに、国際的に標準化された発音記号(IPA)では“hu”ではなく“Φu”(“Φ”は英語の“f”の音ではありませんので、念のため)で表すのが普通です。
 しかし、“ふ”と“ぶ”が全然違う種類の音だということは誰もが認めることでしょう。“ふ”は唇が開いていなければ出せない音で、“ぶ”は唇が閉じていなければならないのですからね。試しに、“く・ふ・ぶ”という三音を繰り返し発声してみてください。腹式呼吸でしっかり発音するのですよ。そうすると、“ふ”は“ぶ”とは種類の異なる音で、むしろ、“く”を発声する際の喉の緊張をうんと軽くした感じで発せられていることに気付くでしょう。落ち着いて観察してみると、“ふ”は他のハ行の音と同じく、“く”のような軟口蓋音と同種の喉の奥で発する音だと認識できるのです。“ふ”が唇音に分類され得るのは、“h”の発音に伴う喉の緊張が“k”や“g”に比べるとはるかに軽微であるのに加えて、“u”という母音が唇を丸めて発生する音であるため唇での摩擦が起きるからにすぎません。
 ここで、以降の話に混乱を生じないように、日本語に関係する音種を整理し、各音種に含まれる音を明確にしておきましょう。私は、以下の四つに分類したいと思います。
  喉音(声門音)+軟口蓋音:g、k、h
  歯音+半舌音:t、d、n、l(r)
  摩擦音+硬口蓋音(破擦音):s、z、ch(ts)
  唇音(両唇音+唇歯音):p、b、m、w、f
 「日本語に関係する音種」と言いつつ、現代日本語にはない“f”を唇音に含めていますが、古い日本語には“f”音があり、以下の話にも関係するためですのでご諒解ください。尚、この区分は音声学で用いられる分類をいい加減に寄せ集めただけのように見えるかもしれません。しかし、これは、私なりに音の類縁関係を考慮した上で、単純化を図るためになるべく大きな括りにした結果であるとご理解ください。破擦音である“ch(ts)”と“s”などの摩擦音を合わせたものを取り出して一つに分類してありますが、日本語ではこの“ch(ts)”音に属する“ち”や“つ”をタ行(“t”音)に含めていますから、「単純化するなら、いっそのこと、歯音+半舌音+摩擦音+硬口蓋音として一括してしまった方が良い」との指摘を受けるかもしれません。でも、私はそこまで大雑把にすべきではないと思っています。この分類には、そういった私の気儘による独断的な面もあるにはあるのですが、まぁ、そういった細かいことは気にしないでください。とにかく、自分で発声してごらんになればそれぞれの類縁関係の妥当性を納得していただけると思います。それに、そもそも、この分類は私の無駄話を明確に理解していただくことのみを目的としているのですから、さほどに突き詰めて検討していただく必要はないと思います。
 話を本筋に戻しますが、要するに、現代日本語において、“はひふへほ(ha・hi・hu・he・ho)”の濁音として“ばびぶべぼ(ba・bi・bu・be・bo)”を捉えるのは極めて奇妙なことだと私は言いたいのです。小難しく言うなら、声帯を震わせることなく声門に空気を通すことで発する喉音(声門音)には、声帯を震わせることで作り出す有声音(濁音)は存在し得ないのです。“ba・bi・bu・be・bo”は確かに有声音である濁音ですが、“はひふへほ(ha・hi・hu・he・ho)”に“てんてん”が付いた音として認識するには無理があり、全く別の音とした方が自然だということなのであります。なのに何故、“ba・bi・bu・be・bo”は“はひふへほ(ha・hi・hu・he・ho)”に“てんてん”を付けてその濁音として取り扱われているのでしょうか。
 現代語の範囲でいくら考えても、答を引き出すことはできません。得心するためには、古代日本語にまで範囲を広げて考察しなければならないのです。古事記や日本書紀が書かれた上代の日本語には、“ん”を除いても88音の音があったそうです。母音が8種類もあったから音数が多いのですが、議論の的になっている肝心の“はひふへほ(ha・hi・hu・he・ho)”という音はなかったらしいのです。現代語の“はひふへほ”に相当する音は“pa・pi・pu・pe・po”だったというのです。なんと“母”(当時は別の漢字を用いていたかもしれませんが)は“はは”ではなく“ぱぱ”だったのです。確かに、喉音に分類される無気音である“h”は些か煩わしいようで、フランス語にも“h”音はありません。“h”音に近い有気軟口蓋音である“x” (ドイツ語の“ch”)もやはり煩わしいらしく、ゲルマン語には存在する“x”音が同系の新しい言葉である英語からは消えてしまっています。上代日本語に“h”音がなくても、それほど不思議に思うことではないのではありますまいか。「なら、どうして後世にそんな煩わしい音をわざわざ使うようになったのだ」と突っ込まれそうですから予め言い訳しておきますが、私は“h”がない方が自然だと言っているのではありません。ただ、“h”音がない言語体系を珍しいと捉える必要はないと言っておるだけのことなのでありますぞ。
 ことのついでに、上代日本語の子音について触れておきましょう。先ず、タ行は完全な“t”音で、現代語なら“た・てぃ・とぅ・て・と”と書かれるような音だったようです。ダ行も同じく完全な“d”音でした。また、サ行も現代音とはかなり異なっており、完全な“s”音は“す”と“そ”だけで、他は“ch(ts)”に近い音だったようです。ザ行も同様で“ず”と“ぞ”以外は“z”音ではなく英語の“j”音に近い音(“dz”と表現した方が分かりよいかもしれません)だったといいます。また、“がぎぐげご”は、現在では江戸方言と認識されている鼻濁音だったそうです。私は、更に、古い日本語の特徴を残していると考えられる東北方言を聞くにつけ、ガ行に限らずその他の濁音も、頭にさり気なく“ng”の要素がついた鼻濁音風の音ではなかったかと推察しています。おっと、これは無意味な余談です。
 このように、上代日本語は現代語とはかなり異なった音で話されていたようなのです。“母”のことを“ぱぱ”と言われたのでは、私たちにはチンプンカンプンでありましょう。それはともかく、発音は時代とともに変化してゆき、平安時代になると、“pa・pi・pu・pe・po”と発音されていた“はひふへほ”に相当する音が“fa・fi・fu・fe・fo”になってしまいました。そうなのです。昔の日本語では、非常に古い日本語の特徴を未だに残している沖縄方言で聞かれるように、“はひふへほ”は“ha・hi・hu・he・ho”という喉音ではなくて、“pa・pi・pu・pe・po”あるいは“fa・fi・fu・fe・fo”という唇音だったのです。だから“ばびぶべぼ(ba・bi・bu・be・bo)”という音が“はひふへほ(fa・fi・fu・fe・fo)”の濁音だと認識し得たのです。即ち、上代や平安時代には、“ばびぶべぼ”は文句なく“はひふへほ”に“てんてん”を付けた音だったのです。
 やがて、“fa・fi・fu・fe・fo”という音が更に“ha・hi・hu・he・ho”という音に変わってしまいました。言わずもがなですが、“pa・pi・pu・pe・po”という音は日本語から消えることなく居残り、“fa・fi・fu・fe・fo”という音は消え去ってしまいました。従って、西洋文化が導入されたとき、“pipe”は問題なく“パイプ”と表記されましたしその通りに発音されましたが、“film”は“フヰルム”と表記され“フ”の発音は唇音ではなく喉音で発音されていました(今でも“フイルム”と“h”音で発する人がいますが。) この“p”音と“f”音の取り扱いの差をことさら気にする必要はありません。何れの音も“はひふへほ”としては過去のものになりはしましたが、“ぱぴぷぺぽ”には別の利用価値があったということに過ぎないのです。漢字音にも“p”音はありますし、促音便に伴って“はひふへほ”を“ぱぴぷぺぽ”に変換することがあったからです。勿論、漢字には“f”音もありますが、“はひふへほ”が“ha・hi・hu・he・ho”になってしまうと、漢字内の“f”音も自動的に“h”音に変えられてしまいました。だから、“f”音は日本語から消えてしまったのです。単にそれだけのことなのです。

 ところで、現在では、歴史的仮名遣いが廃止され“爺(ぢぢ)”を“じじ”と書くようになっています。国語の表記法も現代語の発音にそぐうように改変されているのであります。なのに、どうして、唇音である“ba・bi・bu・be・bo”は喉音になってしまった“はひふへほ”に“てんてん”のままなのでありましょうや。これは何とかしなくてはなりますまい。と問題提起するだけでは話が進みませんので、私はここに大胆なる国語表記上の変革提案をしたいと思うのであります。「唇音である“ba・bi・bu・be・bo”の表記法としては、同じ唇音に“てんてん”を付けるのが妥当であり、そのように仮名表記法を改めるべきである」と。
 然らば、どの唇音にすれば良いのでしょうか。先ほどの分類表をご覧ください。唇音の仲間は“p”、“b”、“m”、“w”、“f”の五つですが、このうちの“b”は変更されるべき対象ですから問題外で除外されます。“ぱぴぷぺぽ”も“ばびぶべぼ”と同様に不適切な表記で改変されるべきですから、“p”も除外されます。“f”音に“てんてん”は“v”音になりますから“b”音の表記には馴染みません。また、“w”音に“てんてん”を付けることには大きな問題があります。ワ行は、ウ段はア行の“う”を使うしかありませんから、“わゐうゑを”と書くしかありませんね。ところが、この“う”は“ヴァイオリン”のように“v”音の表記のために既に用いられています。また、“を”は助詞に限って用いられている仮名なので、これに濁点を付けることは勧められません。要するに、“わゐうゑを”に“てんてん”を付けて“ba・bi・bu・be・bo”を書き表すのは不都合なことなのであります。
 となると、残るのは“m”音のみなのであります。左様、“まみむめも”に“てんてん”を付ける以外に、現在“ばびぶべぼ”と表記されている音を“正しく”書き表すのに適した仮名はないのであります。勿論、“ぱぴぷぺぽ”は“まみむめも”に“まる”を付けたものにします。この発想があながち間違っていないであろうことは、風邪をひいて鼻が詰まった人に“まみむめも”と言わせてみればよく分かると思います。誰が聞いても“ba・bi・bu・be・bo”と聞こえますからね。多少の問題をことさらに気にするなら、“ばびぶべぼ”は気流が全て口から吐き出されますが、“まみむめも”では少しばかり鼻に抜けるという違いがあります(だから、鼻詰まりの“まみむめも”は“ばびぶべぼ”になってしまうのです。) しかし、濁音と清音との違いが声帯が振動するかしないかという極めて大きな違いであることを考えるなら、あなた、呼気が多少鼻に漏れるかどうかなんてことは実に些細な問題ではありませんか?
 意気揚々と「皆さん、これからは“ばびぶべぼ”という仮名表記は止めにして、“まみむめも”に“てんてん”を付けるようにしようではありませんか」と大声で呼び掛けようとして、ハタと気付いたことがあります。ええ、この話の出発点になった“ばば”と呼ばれたくない母親のことですとも。彼女は“はは”に“てんてん”を付けられて“ばば”になるのを嫌がりました。それで、“はは”ではなく“ママ”と呼ばれるように仕向けたのであります。しかし、ここで考えてきたように、“ま”に“てんてん”を付けたものは、現在は“ば”と書かれている“ba”という音の表記に最適なのです。というか、“ま”に“てんてん”が付くと“ba”としか読めないのでありますよ。なんとなんと、“はは”と呼ばれようが“ママ”と呼ばれようが、歳をとって“てんてん”を付けられると“baba”になってしまうのであります。ははははは、笑ってしまいますなぁ。
 はて・・・笑っていてまたもや気付いたことがありますぞ。左様、彼女の亭主の話です。彼は“おぢいさん”と呼ばれるのを避けるために詭弁を弄して孫に“おにいさん”と呼ばせようと画策したのでありました。どうやら、「ははははは」と笑われるのはママだけではないようで、この俄かお兄さんも笑われなければならないようであります。“に”という音は、歯音+半舌音に分類されていましたっけ。それで、この仲間は“t”、“d”、“n”、“l(r)”の四つでした。“ま”に“てんてん”と同じロジックで考えると・・・“に”に“てんてん”は、何と、“di”即ち“ぢ”と発音するしかないということなのであります。これは“n”音のみならず“l(r)”音についても然りなのでありまして、そのことは、中国語の音韻体系を知らない人が往々にして中国語の“r”を“j(dz)”と聞き間違えることからも説明できます。いやはや、“おにいさん”と呼ばせても、“てんてん”を付けられると“おぢいさん”になってしまうのでありますよ。
 否定すべきは“婆”とか“爺”とか“お祖父さん”とかいった“呼び名”ではなく、“母(はは)”+“てんてん”=“婆(ばば)”とか“父(ちち)”+“てんてん”=“爺(ぢぢ)”といった言葉遊びを出発点とした、「歳をとったら“てんてん”が付く」という発想そのものであったのです。私が話題にしたバカ亭主は、“に”に“てんてん”なら問題ないと思って、その正当な主張を堅持することを怠ってしまったのであります。何ともはや浅はかなことでありましたなぁ・・・・・
 お気付きだとは思いますが、実は、そのバカ亭主とは、私のことなのであります。ははははは、自らをバカ亭主と呼ぶ破目に陥る前に、私はもう少し早くこのことに気付くべきでした。昨今流行りのお笑い芸人の決め台詞でこの気持ちを言い表すなら、「気付くのが遅すぎましたからーっ・・・残念!」であり、「斬り!」であり、「切腹!」でありますよ。もう一度、力なく「ははははは」と笑っておきましょう・・・・・・・・・・
 お付き合い有り難うございました。ハァ(これは溜息です。)

(2005年1月21日)


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どうして犬と猿?

 母国語は自然に覚える。「母国語とは何か?」などと言い出したら話がややこしくなるので、此処では、単純に赤ん坊が成長する過程で最も強く影響を与える者が操る言葉だということにしておく。大抵の場合、それは親、特に母親が話す言葉だということになる。母親が文法書をひもときながら子供に言葉を教えている姿を見たことなどないので、「母国語は自然に覚える」という私の理解は間違っていないと思う。だが、長じて学校に通い始めると、国文法も学ぶことになる。しかし、それも単に習うだけであって、文法を習ったからといって自分の言葉を吟味し直す者はいないだろう。学校では、また、辞書の引き方も教わる。最近では、高校生や大学生の中にも辞書を使いこなせない者がいると聞くが、現実は現実として、一応は習っているはずなのだ。しかし、辞書の有用性を知っていても、自分の頭の中に納まっている言葉の意味を辞書で確認することは稀である。ほとんどの言葉は自然に覚えたがために、“調べるまでもなく当たり前のこと”だと信じ込んでいるからだ。
 そこに大きな落とし穴がある。外国語を自然に覚えることは滅多にない。両親が別の言葉を喋る人は自然に二ヶ国語を覚えるのだろうが、このようなバイリンガルたちにとっては二ヶ国語のいずれもが母国語だから、この場合は、外国語を自然に学んだことにはならない。とにかく、母国語以外で新たに覚える言葉については必死で調べる。オリンピックのメダリストに言う「おめでとう」と新年の挨拶の「おめでとう」が英語では同じではないということも、あれこれ調べ上げた果てに知ることになる。ところが、その“めでたい”という言葉がどうして“めでたい”の意味なのか調べ上げる人はほとんどいない。大抵の御仁は「一月は正月で酒が飲めてメデタイ。二月は雪見で酒が飲めてメデタイ。三月は雛祭で酒が飲めてメデタイ。4月も五月も六月も、酒が飲めてメデタイものはどう考えてもメデタイのだから、“メデタイ”がどうしてメデタクなったのかなんてこたぁどうでもいい」と宣(のたま)うのである。
 その通りなのかもしれない。少なくとも、日常生活で“めでたい”が何故“めでたい”のか知っている必要はなさそうに思える。“愛(めで)甚(いたし)”が約(つづ)まって“めでたし”になったと言われれば「なるほど」と思うが、冗談で、都人(みやこびと)が京言葉で「カモナスの芽ぇ出たし、メデタシィことどすなぁ」と言ったのが始まりだと言われてもそんな気になる。要するに、真実がどうであれ、そんなことに構っている暇のない人の方が圧倒的に多いのだ。だが、繰り返すが、そこに大きな大きな落とし穴があるのだ。
 誰にも、言葉に絡む勘違いや誤解の経験があると思う。私も、子供の頃、幾つかの歌の意味を取り違えていた。「垣に赤い花咲き」という歌詞に随分と長い間首を傾げていたものだ。“柿”の花は黄色だったと思うが、何故この歌では「“柿”に赤い花咲き」というのだろうかと悩んだのだ。“垣根”は飽くまで“かきね”なのであって“垣(かき)”だけでもよいのだとは知らなかったのだ。“かき”という音の言葉で唯一知っていたのが“柿”だったので、“かき”とは“垣”ではなく“柿”だと思い込んだのである。もっと小さい頃には、「ゆうやけこやけ」の「小鳥になって」の部分を「子取りになって」だと思っていた。人間が小鳥になるなんてことは有り得ないが、“子取り(人攫い)”は人間だからヒトなら誰にでもなれる。そんな風に、妙に論理的に考えていたようだ。誰にも言えなかったが、ずっと「ゆうやけこやけ」は不気味な歌だと思っていたのだった。「赤い靴」の「異人さんに連れられて」を「ひい祖父さんに連れられて」だと思っていたという話は複数の知人から聞いた。これも、“垣”と“柿”の例と同じで、子供が“異人さん”という知らない言葉を“ひい祖父さん”という耳慣れた言葉に置き換えた例である。
 このような他愛もない勘違いなら笑い話で済むが、そうはいかない例もある。立派に自立した社会人が、頻繁に使う言葉や諺(ことわざ)の意味を誤解していたのでは会話が成り立たなくなってしまう。たとえ一見何事もなく良好なコミュニケーションが成立したように見えても、実は正しく意思の疎通は行われていないのである。頻繁に国語の実態を調査している某協会の報道を聞いて驚いたことがある。「情けは人の為ならず」というのは「他人への親切は巡り巡って自分へと返ってくる。従って、やがては自分の為になることなのだから、他人への親切を惜しんではならない」という意味だ。しかし、多くの人が「なまじ親切にすると、その人をスポイルすることになるので、他人への親切も考え物だ」という意味で用いているのだそうだ。また、「棹(さお)さす」という表現があり、これは「時流などの流に乗る」ことなのだが、これまた多くの人々が「流れに逆らう」ことだと信じているらしい。かの「草枕」の有名な一節「情に棹させば流される」も現在では作者の意図した文意が通じていないということなのだ。漱石先生も草葉の陰で苦笑しておいでのことだろう。
 昔の文豪だけの問題ではない。このような状況だと、うっかりこのような表現や諺を会話に用いると、かなりの高率で全く正反対の意味に誤解される恐れがあるということになるのだ。即ち、習い始めの外国語程度の簡単な日本語を用いるか、幾通りかの表現で繰り返し言わなければ、安心して他人と会話できないということなのである。母国語での会話や通信にこれほど馬鹿げた気遣いを要するとなると、これは正しく異常事態、由々しき大問題だ。外国人との意思疎通がうまくいかないなどという問題どころの問題ではないのだ。表面的には問題なく通じているかのように思える一つの言語を共有するグループ内でのコミュニケーションが、実は全くの誤解しか生んでいないというのが実態なのである。この事実は、いつなんどき、この日本という国の社会秩序がバベルの塔の如くに崩れ去るか分からないということを意味しているのだ。そういった差し迫った危機感を持たなければならない大問題なのである。
 「忙しいから辞書なんか引いてなどいられない」などと言っている場合ではない。国民挙って辞書で自分の国語力を確認する運動を展開しなければならないのではあるまいか。すくなくとも私はそう考えている。ということがきっかけなのではないが、物を知らない私は頻繁に辞書や辞典の類を開く。辞書や辞典の内容に「へぇー」を幾つ連発するかは予測不可能だとしても、純真な子供なら、辞書に書いてあることには誰もが満足することだろう。だが、五十を超えた捻くれ者となると、そう素直に引き下がりはしない。辞書に書いてあることに疑いを持って、色んな資料を引っ張り出してきては穿(ほじく)りまわす。挙句の果てに、珍説、奇説をでっち上げて悦に入る。無論、これを実(まこと)しやかに発表はしない。人に言うときには、「私的にして非学問的な考察だ」と断ることを怠りはしない。そうでなければ、言葉が原因となる混乱を避けるために行う辞書による確認作業の副産物が、却って、新たなしかも無用の混乱の原因となってしまうからである。

 さて、捻くれおじさんが簡単に珍説、奇説を抱けるほど豊富な資料があればいいのだが、簡単な事柄なのに一向に納得いく説明が得られないことも少なくない。枕が長くなったが、そのような難問の一つが、今日の主題である「どうして犬と猿?」という疑問を私の心の中に刻み込んだのである(人によっては“難問”ではなく“愚問”だと酷評するかもしれないが。)
 「犬猿の仲」という言葉というか表現がある。辞書で調べるまでもなく、誰しもが「非常に仲が悪いことを言う」と理解しているであろう。私とて、別の意味があるなどと思っている訳ではない。言葉の意味に疑問を差し挟む余地はない。しかし、何故「犬猿の仲」が険悪なのかという点が分からないのだ。複数の辞書や辞典を引いても、言葉の由来や何時頃から使われている表現なのかについての説明はなされていない。何時頃から使われているのかという点については、国文学の古典で使用例を遡っていけば、少なくとも現存する最初の使用例の時期までは特定できるだろう。だが、何故「犬猿」なのかという疑問に答える資料を簡単に見つけることはできないのではないかと思う。何故なら、そのようなものがあればとっくの昔に辞書に書いてある筈だからである。「和名抄」や「和漢三才図会」のような大昔の辞書というか百科事典というか、兎に角そういったものに出ていればそのように記述してあるし、中国の古典に見える表現ならその旨注記してあるものなのだ。社会的に評価された字引というのはそうしたものなのである。歴とした字引にそのような説明がないということは、暗黙のうちに、これといった説明や見解がないと明言しているということになるのである。
 このような事態は、好奇心の塊である捻くれおじさんには耐え難いことだ。地下鉄の車輌をどうやって地下に運んだのか考えると夜も眠れなくなる漫才師がいたが、それと同じほどやっかいな問題なのだ。険悪な間柄を何故“犬”と“猿”で言い表すのか考え始めると、疲れ果てて昼寝はできても、昼寝をしてしまった夜は目が冴えて眠れなくなってしまう。冗談は抜きとしても、解決できない問題を抱えていると、不健康な精神状態に陥ってしまうのだ。そのような状態が長く続いては堪らないので、ごちゃごちゃと考えたことをここに吐き出して一段落つけておこうというのが本文の目的である。捻くれおじさんの屁理屈には付き合いたくないかもしれないが、ここまで読んでくださったのだから、この先もお付き合いくださるよう、ぜひともお願い申し上げる。
 先ずは、日本の昔話の類に犬と猿が喧嘩をしている話があるか考えてみたい。犬と猿で直ぐに思い付くのは「桃太郎」だが、この話では犬と猿とは味方同士であり、共に桃太郎に仕え協力して鬼を懲らしめる。貰った黍団子の数も、両者共に「一つくださいお供する」と言ったとあるから、同じだったようだ。報奨に差が無いとすれば、後で仲間割れを起こす原因もなさそうだ。「猿蟹合戦」で猿に騙されるのは蟹で、犬が蟹と大の仲良しだったという話も聞かないから、この件で犬が猿に悪感情を抱くことはなさそうだ。それに、お人好しの蟹(“お蟹好しの蟹”と言うべきかな?)は騙されたからといって猿を恨むこともなかったようだ。別の話に出てくる猿の生き胆を取り損ねて骨を抜かれたクラゲが、猿を逆恨みしたことは充分に考えられるが、ここでもやはり、犬がクラゲに与(くみ)する理由が見当たらない。「花咲爺」の犬を殺したのは隣の欲張り爺さんで、この爺さんが猿と仲良しだった形跡はない。この話でも、犬と猿とが喧嘩する要素を発見することはできないのだ。どうやら、直接的に且つ日常的に犬と猿とが諍(いさか)いを起こしていたという見方は成り立たないようである。
 そうなると、次は、犬と猿それぞれに対する人のイメージに対立点を求めてみなくてはなるまい。蟹やクラゲを騙しているように、猿は好く言えば“知恵者”、悪く言えば“狡猾者”というイメージが強い。しかも、どちらかというと“悪者”扱いを受けることが多いようだ。「今昔物語集」には猿や犬が絡む話が複数ある。その中で、人身御供を食う悪い猿神が懲らしめられる話が複数ある。しかも、そのうちの一つには脇役ながら犬も関係している。巻第二十六に見える「美作の国の神、猟師の謀に拠りて生贄を止めた語」がそれである。東国から来た猟師で多数の犬で獲物を駆って行う犬山という猟を業とする者が毎年生贄のヒトを食っていた猿神を犬と共に退治する話である。
 上の例のように、猿には小狡い悪者のイメージが付きまとうが、ここで気付くのは、その悪者は必ず人に懲らしめられている点である。これは、猿にはネガティブな性格付けが行われているが、同時に、身の毛もよだつというほどに毛嫌いされている訳でもないということを表していると思う。そのような側面の表れであろうか、「今昔物語集」巻第二十九には、命を助けられた猿が猿知恵を使って多数の鷹を打ち殺して恩人に報じた話が採録されている。「鎮西の猿、鷲を打ち殺して、恩を報ぜむが為に女に与へたる語」である。恩人の赤ん坊を攫(さら)い、それを鷹を誘き寄せる道具に使うような怪しからん行動をとってはいるが、報恩は報恩だ。これらをまとめると、日本人は猿に対して“小憎たらしい悪餓鬼(わるがき)”のような感情を持っていたように思える。
 一方、犬については、概して肯定的な見方が勝っているようだ。多くの物語で、忠誠心に満ちており勇敢に主人のために働くという風に描かれている。猿では珍しい部類の報恩物語も多い。「今昔物語集」にも「花咲爺」に似た感じの犬の報恩物語が出ている。「参河の国に、犬頭の糸を始めたる語」というものだが、三河の特産品であったらしい“犬頭白糸”という上質の絹糸の由来話として語られている。また、「陸奥の国の狗山の狗、大蛇を咋ひ殺せる語」という飼い主である猟師を大蛇から守った忠犬の話もある。明治時代の実話が美化されて語り継がれた忠犬ハチ公の話の下地は、平安時代にまで遡ることができるということなのである。
 犬にも、マイナスイメージがやや強い話もある。「北山の狗、人を妻と為せる語」では、大きな白犬が人間の女を攫(さら)って妻としたとしている。攫われた女は犬のことを「奇異(あさまし)き物」と言っているだけだが、自分の意思に反して捕らわれて「被領(りょうせられ)て」いるとも言っているから、犬の行動を容認している訳ではない。しかし、このことを伝え聞いたお調子者がその犬を狩りに行ったが、矢が全て逸れて犬は女と共に逃げ去ったことから、「神などにて有けるにやとなむ語伝へたるとや」と結んでいる。この犬は神に違いないということで、犬の罪の程度を軽減しているのである。日本人にとって、犬とは基本的には“文句のつけようがない良い子”であったように思われる。
 このように、犬と猿に対する日本人の古来の感情を探ってみると、確かに両者には対立点があるようだ。しかも、嫌われ者の部類に属する猿にも親近感を持っていたことも明らかだ。この点は、結構大事なポイントだと思う。例えば、唯一神を信じる人にとっては絶対的に否定されるべき悪魔とその対極の側の天使との対比を実生活の人間関係に持ち出すことはできない。対比された二陣営の何れからも「どっちが悪魔なんだ」と詰問されてしまうことだろう。そんな対比をうっかり使うと火に油を注ぐようなもので、対象となった対立は収拾できないところにまで行ってしまうに違いない。犬と猿なら、どっちがどっちでも大きな問題にはならない。嫌われ者でも知恵者の猿に譬えられたことを好ましいと思うことさえあるだろう。

 このような対立として犬と猿とを捉えると、考えはもっと的確になっていくように思える。動物の世界で最も大きな対立は、食う物VS食われる物という構図だろう。このような意味合いで一つの極をなすのは肉食動物であり、その対極には草食及び雑食動物がいる。勿論、熊のような強力な雑食動物は食う側に回るし、百獣の王ライオンでも幼弱なものはハイエナのようなより弱い動物に食われてしまう。だが、そのような細かなことを気にしていては話が進まないので、ここではそんなことは無視する。とすると、食肉動物の代表として選ばれたのが犬で、雑食あるいは草食動物の代表として選ばれたのが猿だと単純化できる。
 日本には猛獣が少ない。最も強大なのは熊で、最も強力なのは狼ではないかと思う。日本狼は既に絶滅したらしいが、その昔はそこここの山にいたようだから、食う側の代表として選ばれていてもおかしくはない。そのような一番たちを差し置いて犬が代表に選ばれたのは何故だろう。私はその答は単純なことだと考えている。第一点目は、熊も狼も畏敬の念の対象としての神であったことにあるだろう。何にでも神性を認める日本人だから、犬も神として扱われることはあっただろう。先ほど出て来た「北山の狗」も「神などにて有けるなめり」であった。だが、滅多に出くわすことのない熊や狼と違って、犬は日常的に人間の世界に居座っている。万物に備わる神性より人間の友としての性格の方が強かったのである。
 二つ目は、熊や狼には敵がなかったことであろう。熊に太刀打ちできる大型動物としては牛か馬しか考えられないが、いずれも熊を倒すほどの力はない。狼にいたっては無敵と言っていい。体が熊より小さい分、牛や馬にとっては戦い難いからだ。それに、このような対立の譬(たとえ)の実例が血で血を洗う凄惨なものであったのでは洒落にならない。この点も肝心なことであり、実際には大した争いにならないことも選考理由の一つなのだ。犬は勇敢で強力だが、人の命令に従う。大事(おおごと)になる前に戦いを終わらせることだってできる。人間に最も馴染み深い肉食動物である犬こそ、対立の比喩において動物界の食う側の代表として第一にノミネイトされるべき動物であったのだ。
 ここまで考えがまとまってくると、食われる側の代表に猿が選ばれた理由は容易に引き出せる。犬との対立関係は先ほど吟味した通りであって、非の打ち所はない。戦闘能力もなかなかのもので、迂闊に手を出すと人間でもやられてしまう。私は実験で猿を使っていたことがあるので断言するが、猿は上下関係を悟らせるまでは絶対に服従しないし、服従しない間はその強力な腕力とバネと牙で凄まじい攻撃を仕掛けてくる。まともに喧嘩をすれば、訓練された犬と互角だと思う。また、犬と比較しての人間との馴染み深さという点についても申し分ない。基本的には山で暮らすが、集団が大きくなり過ぎたり山の食料が乏しくなると人里に降りてくる。だからこそ、人身御供を取る猿神の話も出来上がるのだ。だが、そんな神性も熊や狼のものとは比較にならない。簡単に人間に退治されてしまうようなドジな悪神様なのである。この点においても、熊や狼のように猿を代表として忌避する理由はないといえる。
 ならば、猿以外に犬に対抗できる実力者がいないかというと、それがそうでもなさそうだ。ウサギや鹿では犬の相手にならないが、猪なら手強そうだ。特に避けなければならない神でもない。だが、問題がある。先ほど指摘したことだが、対立の譬(たとえ)として血みどろの戦いをする組み合わせを選ぶことは避けたいのだ。しかし、猪も気が荒いし強力な牙も持っている。犬と戦うと、実際の狩猟現場のように、流血の惨事になってしまうことだろう。その点、猿は余り戦わずにすぐに木の上へと逃げて行ってしまう。木に登れない犬は木の下で盛んに吠えることだろう。だが、うるさいだけで惨憺たる有様を見ることはない。猿が木に登るというのは極めて重要な選択上のポイントなのである。
 このように考えると、犬と猿というのは対立する譬(たとえ)に用いる組み合わせとしては日本の山野の生態系の中では最良のものなのである。これ以上に適切な組み合わせはないと私は断言する。然らば、世界中でこの組み合わせで不仲の間柄を表現しているかと問われれば、残念ながら「否」と答えざるを得ない。私が知る限り、日本以外で「犬猿の仲」を口にする国はない。尤も、私の知識は乏しく、(この件に限らず)世界中の言語や地域について言及することはできない。ただ、聞きかじったところによると、スペインとロシアでは不仲の代表として犬と猫の関係を挙げているらしい。これはこれで、考えようによっては、頷ける選択だと思う。人間の生活空間内で見かけられる動物に限定すれば、この取り合わせも悪くはないのだ。
 猫と犬。何れも人間にとっては極めて身近でありながら、片や集団を形成する動物で、こなたは単独生活を営む習性を持つ。同じ食肉目で似たところがありながら、実のところは全然違う性格を示す。対比としては使い易いと言える。しかも、ここが面白いのだが、猫は猿と同様に木に登る。猫と犬とで喧嘩になっても、猫は直ぐに木に逃れて、何事も無かったかのように、悠々と顔を洗い始めるのだ。猫と犬とが延々と戦っている様を見たという人はいないだろう。血を見ないで済むという点で、犬VS猫は犬VS猿と似通っているのである。ロシア人にとって猿は馴染みが薄い動物だから、猫がその座を奪っても不思議はない。一方、スペインにも猿は居るが、彼の地の生活習慣は日本と異なる。牧畜を営まない日本では、里に降りてくる猿は例外なく農家の敵である。敵役としての性格付けはこの点に基礎をおいているのだ。しかし、牧畜が盛んなスペインでは農家の敵という側面より人間に似たひょうきん者といった面の方が強調されているのだと思う。そこで、犬に対抗する敵役としては、嫌う人はとことん嫌う生意気な猫が選ばれたのだと考えられる。この考察が正しいかどうかは分からないが、犬VS猫が犬VS猿に共通した面を有していることだけは間違いない。

 要約すると、凄惨な状況を仮定せずに険悪な関係を身近なもので表現するとなると、日本の風土にあっては、犬VS猿という構図が最適であったということなのである。私はこれを昔の日本人の英知だと理解する。悪を徹底的に糾弾すると、善人の感情もまたささくれ立ってしまう。“争い”そのものが醜く不毛なものだからである。そのような悲しい対立関係をそのまま表に現すことなく表現したい。そのような意思を感じる言葉なのである。「犬猿の仲」、聞き慣れた言葉だが、今こそ噛み締めたい言葉ではある。
 今、日本の国は怒っている。とあるアナクロ独裁国家による犯罪行為に怒り狂っている。非道にも他国の者を拉致し自国の利益の為に利用した。剰(あまっさ)え、詭弁・虚構をもってその事実を弄び、被害者の関係者の神経を逆撫でにしている。不倶戴天の敵というべき卑劣な者たちである。最早、制裁しか残された対抗手段はないとの意見が高まっている。感情論としては無理からぬことだと思う。だが、私は、たとえ経済的なことに限るとしても、制裁を加えることに踏み切るべきではないと考えている。勿論、話し合いで解決できるとも思ってはいない。話し合いで解決できる相手でないからこそ制裁という実力行使に及ぶのだが、話し合いで解決できない相手との紛争は行き着くところまで行かなければならないということでもあるからだ。アフガニスタンへのロシアの介入もアラブ湾岸地域へのアメリカの干渉も長期的な血みどろの争いに終わっている。彼の国への経済制裁が単なる経済制裁で終わるとは思えないのだ。
 彼の国と仲良くする必要などない。不倶戴天の敵同士であってよいだろう。だが、私は古来の知恵に従って、彼の国との関係は「犬猿の仲」に止めておきたいと思う。拉致被害者の関係者には納得できない意見かもしれないが、私は本気でそのように思っている。彼の国の現体制は間も無く滅びる。その折には流血の惨事となり、日本も巻き込まれることになるかもしれない。だからといって、わざわざ今この時期に導火線の火付け役になる必要などさらさらないではないか。明らかに自滅への道を歩んでいるのだから、私たちは猿のように木の上でそれを待っていればいい。如何なる状況であっても、彼の国に捉えられている拉致被害者の安全は常に不安定な状態にある。彼の国が混乱状態に陥るのを待ってから救出活動を行っても大きな不利益はないと思う。木の上の猿が必ずしも安全だとは限らないが、好んで争いに突入するより犠牲は少ないはずだ。
 「どうして犬と猿なのか?」という素朴な疑問に対する私の答は、無理やりのコジツケに近いものかもしれない。しかし、これを日本人の知恵として捉えることにはそれなりの意義があるのではあるまいか。そして、今こそ「犬猿の仲」という表現を考え出した先人たちに学ぶ時なのではあるまいか。

(2005年1月2日)


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ら・り・る・れ・ろ

 電話帳でラ行の部分を見ると、先ずは人数が極端に少ないことに驚く。次に気付くことは、その多くが外国人であることであろうか。中には日本国籍を取得した方もおられるだろうが、劉さん、廉さん、李さん等は中国人あるいは朝鮮人だと考えて間違えあるまい。カタカナ名は言うまでもなく外国人あるいは極めて少数の元外国人である。
 その中にあって、どこから見ても日本人の名前だと思われるものもあるが、それらには興味深い共通点がある。私の家にある電話帳からそのような方々の名前の最初の文字を拾い出すだけで、その共通点は直ぐに見出せる。電話帳からは“龍(リュウ)”、“六(ロク)”、“蝋(ロウ)”などの文字が引き出せるが、これらは全てが音読みなのである。音読みの名前が珍しい訳ではないが、ラ行の名簿のように音読み名ばかりが並んでいるのは矢張り目立つことだ。名前の漢字は訓読みの方が馴染み深いからだろう。よく目にする“山(やま)”、“川(かわ)”、“田(た)”、“鈴(すず)”、“藤(ふじ)”などはいずれも訓読みである。全国津津浦浦を調べ廻った訳ではないので断定はできないが、訓読みで始まるラ行の氏名を見つけることは出来ないのではなかろうか。
 というのも、日本語には語頭が「ら・り・る・れ・ろ」で始まる言葉が極めて少ないからである。このことは国語辞典を開いてみれば一目瞭然だ。しかも、ラ行の言葉のほとんどは漢語かカタカナ語であるのが分かる。勿論、“らしい”とか“られる”といった純粋に大和言葉である助動詞なども混ざっている。だが、これらが単独で用いられることはなく、必ず動詞などの用言の後ろにくっつけて使われる。間違っても独立した言葉の先頭に位置することはないのである。
 この事実を確認するには、辞書を引くなどというまどろっこしいことをしなくても、尻取り遊びで困ったときのことを思い出すだけで充分だ。“ら”で始まる言葉としてサッと出てくるのはカタカナ語である“ラッパ”、“ラジオ”、“ランドセル”ぐらいで、“ら”が何度も続けて出てくると頭の中が真っ白になってしまう。“螺鈿(らでん)”や“螺旋(らせん)”や“拉致”といった漢語は多くあるが、遊びに使うにはやや気が引ける。“る”はもっと悲惨だ。“ランドセル”に続けて定番の“ルビー”を出してしまったらもうおしまいだ。次に“る”が巡って来ると笑って肩を竦めるしかない。“瑠璃(るり)”なんて物もあるが、若い人には「何それ?」と胡散臭い目で見られてしまう。“ルリアゲハ”の類の動植物名なら結構あるが、合成語の一種だと見なす人もいるし、そんな物の存在を知らない人もいるから、矢張り歓迎はされない。“留守(るす)”も名詞には違いないが、尻取りに使うには躊躇いを隠せない。ならば“留守番”ならいいだろうと思ったが最後、“ん”で終わって“The end”である。

   さて、さきほど、電話帳で見つけられるラ行の外国人名で“李さん”を挙げたが、この“李さん”は韓国では“リさん”ではなく“イさん”である。“李”という漢字は韓国でも“リ”と読むが、“李氏”とか“李君”などと呼び掛けるときには、先頭の“L”が脱落して“イ氏”とか“イ君”と発音する。朝鮮語では語頭に“L(R)”が来ることが絶対に有り得なかったからなのだ。従って、英語で“ミスター李”と言う場合には、“李”が語中に入り込むので“イ”ではなく“リ”と発音される。「語頭に“L(R)”が来ることが絶対に有り得なかった」と過去形で書いたのは、最近では、外来語などはそのまま“L(R)”をつけたままで発音することが多くなっているからである。その昔は徹底していて、何処の国からの外来語であれ、“L”が語頭にあって次の母音が“i”または“j”の場合は“L”が脱落し、その他の母音が続く場合には“L”(ハングルでは“リウル”)が“N”(ハングルでは“ニウン”)に変換されたそうだ。例えば、ラジオのことを現在は“ラヂオ”というが、導入された当初は“ナヂオ”と言っていたそうだ。ということは、古くからの朝鮮語には語頭が“L(R)”で始まる単語は皆無だということなのではあるまいか。
 そこで、韓日辞典を広げて“L(R)”に相当する“己”のような形のハングル“リウル”で始まる語句を調べてみると、予想通り、独立した単語として収載されているのは、日本で言うところの漢語かカタカナ語だけで、残りは全て別の単語の語尾にくっつく接尾辞の類の言葉であった。この有様は、なんと、日本の国語辞典に見られる傾向と全く同じなのである。ということは、大和言葉が形作られた大昔には、日本語も朝鮮語と同じように、語頭に“L(R)”が来ることが有り得なかったということなのであろう。朝鮮語という実例がある以上、それ以外にこれほど見事にラ行で始まる大和言葉が少ない理由を思い浮かべることはできない。
 私は、長年に亘って、このようなことを薄らぼんやりと考えていたのだが、最近になってそれなりの本を読んでみると、古代日本語では語頭に“L(R)”が配置されなかったことは古くから歴とした学者が認める事実だということが分かった。言語学には縁が薄かった私が知らなかっただけだったのだ。まぁ、オリジナリティーの程度も低く意識も薄らぼんやりしたものであったとはいえ、電話帳の観察から言語学的な事実にまで辿り着いたことには満足しておこうと思う。更に、自己満足のついでに、想像を逞しくしてみようと思ってこの文章を書き始めたのだが、その想像の対象は、古代日本語と古代朝鮮語が同じように語頭に“L(R)”がくることを嫌っていながら、朝鮮半島ではその伝統が現代にまで引き継がれているのに、片や日本列島では誰も意識しないほどに忘れ去られてしまったという差異が生じた理由である。
 差異といえば、同じように二つの国の古代語では共通していながら、現在では一方で引き継がれ他方では消えてしまったものがもう一つある。母音調和という現象だ。母音調和というのはトルコ語などのアルタイ語族に顕著に見られる現象で、発音の種類の異なる母音(前舌音、中舌音、後舌音など)の配列に一定の法則性が認められる現象のことである。これについて細かい事実を知らなくても本日の話題の進行に支障はないので、説明は割愛させていただく。しかして、これまた、伝統をしっかり引き継いでいるのが朝鮮語で、すっかり忘れてしまったのが日本語なのだ。
 「日本人は忘れっぽい」を答にして議論を打ち切ってもいいのかもしれない。確かに日本人は忘れっぽい。軍国主義による大いなる過ちで自国民だけでなくアジア諸国の多くの人々を不幸のどん底に突き落とした過去もすっかり忘れ、今や軍事大国の一つに返り咲いてしまった。しかも、現在も生きている憲法条項も忘れて海外に派兵している。斯くの如く日本人が忘れっぽいのは事実だが、それで終わらせてしまっては私の野次馬根性が承知しない。“ら・り・る・れ・ろ”で始まる言葉の問題についてはもう少し屁理屈を捏ねないではおられないのだ。

 “ら・り・る・れ・ろ”の前に、主題ではない母音調和の件を片付けておこう。偉そうに「片付ける」などと言ってはみたが、決して緻密で学問的な裏づけのある考察ができる訳ではない。この次に議論する“ら・り・る・れ・ろ”の問題にも関係しそうな事柄をとりとめもなく考えるだけのことだ。要点を先に述べるが、ポイントは日本語の大きな特徴である50音にあるように思っているのである。日本語の音素は“ん”を除いた全てが子音+母音で成り立っている。だから、50音表という極めて機械的な枠組みの中に基本音素を押し込めることができるのだ。 しかも、その母音の数は “あ・い・う・え・お”のたったの五つである。沖縄方言にいたっては三つしかない。日本語では二重母音だとは認識されていないが、外国人なら二重母音だと理解するかもしれないものを数え上げても、やはり少なく、それらは“や・ゆ・よ・わ”の四つに過ぎない。
 私が日本語との比較対象に使っている朝鮮語の場合はどうかというと、先ず子音だが、無闇矢鱈と子音が連続することはないが、子音だけの音もある。代表的なのはパッチムという終声子音である。中国語の入声(にっしょう)をイメージすれば分かりよいだろう(入声についてはもう少し後ろまで読んでいただければ分かっていただける。) それに母音に関してはその数が多い。単母音だけで十あり、二重母音(あるいは合成母音)は十一もある。日本語の倍以上なのだ。これらの母音が陽性と陰性の二種に分類されており、語形変化の際、語幹の最終音節の母音の種類によって接続する母音が規定されるという現象がある。陽性母音には陽性母音が、また陰性母音には陰性母音が連なるのだが、これぞ正しく母音調和の一例である。私はこの母音の数の多さに朝鮮語の伝統に母音調和が生き残った理由を求めたい。それというのも、母音調和があった大昔の日本語でも、母音の数が現在より遥かに多かったからなのである。最も有力な説では、“あ・う”各一種と“い・え・お”各二種、計八種類の単母音があったという。また、二重母音と考えられなくもないヤ行、ワ行も“や・ゆ・よ・わ・ゐ・ゑ・を”の七種があった。
 母音数と母音調和の関係については以下のように考える。現代日本語のたった五つの母音の中にも、安易に発音できるものと一所懸命でないと正しく発音できないものとがある。“い”は口元をうんと引き締めなければならない。“お”は唇を意識して丸めなければならないし、“う”は丸めた唇を突き出さねばならない。“あ”をはっきりと発音するためには口を大きく開けなければいけない。ところが、“え”はこれらに比べると口元も唇も開口の加減も然程に意識しなくても発音できてしまう。
 この差は大きい。例えば、戦いの際の掛け声を上げてみると「やっ」、「とう」、「たぁーっ」、「えい」などがあるが、この中で“え”が絡んだものについてよくよく考えてみると、その“え”はただの“え”ではないように思えてくる。オーソドックスな“えい”を気合を込めて発声するときには、口元をぎゅっと引き締める。即ち“い”に近い“え”であり、「いぇいっ」と書いた方がぴったりくるのである。「ちぇぃすとーっ」という掛け声もあるが、この場合、“え”は“ch”という口蓋音に伴っている。“え”という曖昧な母音は激しい子音と一緒になって初めて力強くなれるということだ。因みに、漫画などに出てくる「キェーッ」というのは掛け声ではない。“k”という喉音で表記しているように、これは声ではなく空気の噴出を伴う気合を表現しているものであって、実際には「ハァーッ」とか「ヒューッ」と聞こえる呼吸気音に過ぎない。
 このように、“え”という母音は掛け声には適していないのだ。中国兵の吶喊時の発声は「シャーッ」なのだそうだが、これが「シェーッ」では力が入らない。私が小学生の頃からお馴染みの赤塚ギャグ漫画に登場する長髪出っ歯のイヤミ氏の奇妙な仕種を心に描くからではない。「シェーッ」ではお臍に力が入らないのであり、だからこそイヤミ氏の素っ頓狂なポーズに伴う発声として採用されたのだと思う。「シャーッ」は“殺”の中国音である“sha”なのだが、どんな民族でも“殺”の発音を“she(シェーッ)”にはしないだろう。凶悪な感じを“え”というお気楽な母音で表すことはできそうにないからである。
 余分な話で訳が分からなくなる前に軌道をを元に戻すが、母音には気楽に発声できるものと一所懸命に発声しなければならないものとがあることを説明したかったのである。このような発声の難易度は母音が連なる場合により強く意識されることであろう。唇や舌といった発声器官の位置や緊張度がスムースにコントロールできるように母音は配列されるに違いないのであって、それこそが母音調和の原点なのだと考えている。
 ところが、元々は数多くあった母音が少数の母音へと収斂してゆくと、そのような母音の配列への意識は必要なくなってくる。意識して区別する対象数が減るということは、それらを配列する順列数が大幅に減少するという結果をもたらすからだ。少数の母音をどのように配列しても、その発声に対する気の遣いようは大したことではなくなるということである。日本語から母音調和という現象が消えた理由は、同種の母音の同一化による母音数の減少にあると考えたい。
 しからば、母音数の減少の要因は何であろうか。私は、それこそが日本語の全ての音素が子音+母音からなっていることなのだと思う。古代に50音表はなかった。しかし、古代人にも分類という概念はあったし、分類結果を図表化する能力も備わっていた。詳細は割愛するが、中国では漢字の発音を示す方法として“反切”というシステムが考案され、「切韻」という書物が日本の上代に相当する時期に刊行されている。また、漢字の音韻を分類しそれぞれの代表を何枚かの表にまとめた「韻鏡」というものもあったらしく、平安時代の日本人による写本が発見されている(本家本元の中国では見つかっていないそうだ。) 古代の日本人もまた言葉の音素を分類するということを学んでいたということなのである。そのように高度な概念を理解できる人たちが操る言葉の進化の方向は、“整った分類”へ向かうものであったに違いない。子音+母音という音素原則を持つ日本語にあっては、50音表は向かうべくして向かう進化の方向であったのだ。少々の母音の違いは無視され、音素は単純ながら整然とした体系へと収斂していった。意識的にそのようにしたというのではない。当時の人々の言語生活が無意識のうちに求める方向へと向っていったということだ。

 日本語における母音調和の衰退の原因、及びそれをもたらしたと考えられる母音数の減少の原因が、私の考える通りであったかなかったかは誰にも分からない。ロマン溢れる謎として置いておいてもいい。それより、ここでの主題は“ら・り・る・れ・ろ”なのだから、そちらに集中しなければなるまい。先ずは、語頭に“L(R)”を配置することを嫌う理由を考えなければならない。“L”も“R”も舌を使って発する子音である。その後ろに如何なる母音が来ようが舌の位置が限定される。“L”は舌先が上の前歯の裏につく。多くの言語では、“R”は舌が巻き上がって口腔内に留まる。フランス語の場合は特殊で舌先が下の前歯の裏について、ゲロを吐いたような汚い音になる。フランス語は綺麗な音のみを大切に残した言語だというのは単なる俗説で、事実はケルト訛りのラテン語の成れの果てに過ぎない(言い訳しておくが、私はフランスという国家やその国民に悪感情を抱いてはおらず、その歴史や現在の有り様には全幅の敬意を払っている。ただ、フランス語を盲目的に美化する人たちの不見識を嫌っているだけなのである。)
 しかし、極東の一部の国々では事情が少々異なる。“L”と“R”の区別がないのである。というか、舌の位置が中途半端だと表現すべきなのだろう。宙に浮くでもなく歯の裏に着くでもない。口蓋に僅かに触れる感じではあるまいか。尤も、口蓋に舌が触れずに“R”に近くなっても、舌先がちょっと前の方にずれて“L”に近くなっても気にしない。要するに、舌の形と凡その位置には拘るがその微妙な位置の違いにはおおらかなのである。但し、舌の位置を維持するためには他の音より舌を緊張させなければならないことに変わりはない。
 ここで、併せて母音の発声について考えてみると、宿命的な対立関係に気付くのである。母音の発声は、先ほど述べたように、口元や唇の緊張を要求するだけでなく、口腔内での舌の位置にも大いに関係しているのである。日本語で言えば、“い”と“え”は舌が口腔内の前方に位置するが、他の母音の場合、舌はそれより奥の方になければならない。“L(R)”と母音の何れもが舌の位置を指定するとなれば、“ら・り・る・れ・ろ”を発声し分けるためには大いなる努力が必要になってくる。舌を用いる子音としては、他に“T”と“N”があるが、これらは“L(R)”のように舌を上に反らせる必要がない分自由度が大きい。母音との組み合わせで発生する舌の位置に関する対立を舌や口元の緊張度を加減することによって回避できるのである(自分で発声してみれば納得していただけるであろう。) 朝鮮語で、語頭の“L(R)”が後ろに“i”または“j”以外の母音を従えている場合には“N”に置換された理由はこの点にある。因みに、“i”または“j”の前では“L(R)”が単純に脱落するだけなのは、先に論じたように“イ“という母音が口元を緊張させて発する明瞭な音だからだと考えられる。
 語頭の音はコミュニケーションにとっては極めて大切な音である。特に、イントネーションやアクセントにさほどの重点を置かない日本語や朝鮮語にとっては然りである。その重要な語頭が発音し難いのは致命的な問題だろう。日本語では方言によってアクセントが異なるが、国内で大きな混乱なく意思の疎通が可能である(発音や用語が全く異なる津軽弁や沖縄弁は通じないが。)標準韓国語の場合は、全くイントネーションは意味を持たず、母音の長短が重要だという。一部の方言ではイントネーションによって同音異義語の区別がなされるらしいが、この差異も、日本語の場合と同様に、致命的な意思疎通の妨げにはなっていないようだ。しかし、英語などはイントネーションあるいはアクセントを間違えると通じない場合が多いように思う。
 勿論、英語でも語頭が重要であることに違いはない。アメリカのリカーショップで知人がワイルド・ターキーというバーボンを買おうとしたことがあった。知人の「ワイルド・ターキー」という言葉をなかなか聞き取れなかった店員がやっと注文を理解したとき、「オォ、ワ、タ」と叫んだときには笑うと同時に大いに納得してしまった。店員も「オォ、ワイルド ターキー」と言ったのだが、私たちには「オォ」と「ワ」と「タ」しか聞こえなかったのだ。それ以来、その知人はリカーショップでは「ワ!タ!」と叫ぶようになった。しかし、アイスクリームの種類を指定したかったが“vanilla”が通じなかったとか、“Marilyn Monroe”が理解してもらえなかったというのは語頭音の問題ではない。偏にアクセントの問題なのである。このような事例を様々に考えていくと、日本語や朝鮮語においては、英語などよりもっと語頭の音が重要だということが納得できると思う。
 そのように重要な語頭の音が発音し難いのは大問題である。そもそも日本語や朝鮮語はあまり口を動かさなくても喋ることができる言葉だ。古代語は特にそうであったと推察されている。現在の東北方言を思い浮かべればいい。寒い地方の言葉だから口を開けないのではない。古い日本の言葉の伝統を残しているから口が動かないのだ。古代においては、現在より以上に語頭音の発音の難しさが大きな問題であったに違いない。これが古代日本語や朝鮮語で語頭の“L(R)”が避けられた理由だと考える。
 “L(R)”を排除するという頭音法則が日本語では消えてしまった理由も、母音数の減少に求めることができる。そのロジックは母音調和が消滅した現象の場合と全く同じである。母音の発音における苦労が軽減されたために、“L(R)”の発音に神経を使うことにさほどの苦痛を感じなくなったのだ。繰り返すが、その母音数の減少をもたらしたのは子音+母音という日本語音素の構成原則なのである。ところで、この子音+母音という日本語音素の構成原則からは更に別の問題を考える上での視点を得ることができる。その問題とは、日本においては漢字に訓読みが定着したが朝鮮では漢字に訓読みが適用されなかったという事実である。日本人にとって、“田”という漢字を“た”という大和言葉で読むことは自然なことだが、朝鮮語の漢字には訓読みはない。韓国では“田(た)”のことを“のん”というが、“田”という漢字を“のん”とは絶対に読まない。“田”という漢字は“チン”としか読まないのである。同様に、“水(みず)”のことは“むる”というが、“水”という漢字は“ス”としか読まない。従って、“水田”と書いて“むるのん”と読むことは有り得ない。“水田”は“スチン”としか読めないのだ。
 漢字の読みに対する日韓両国の姿勢の違いは古来から一貫したものではない。大昔は、朝鮮半島でも、訓読みのような漢字の使い方をしていたことが知られているからである。新羅では自国語の記録を漢文を用いて行っていた。その折に、万葉仮名のような補助音のための漢字を付け足した事実が確認されている。また、それを読む場合には、日本と同様に、自国語の“読み下し文”にしていた。当然ながら、音読みのみではチンプンカンプンであったろう。サンスクリット語の陀羅尼(ダラニ)や真言(マントラ)のみならず、音読みで唱えられる漢文のお経の意味が私たちには分からないのと同じことである。新羅でも一部の漢字には自国語の訓(よみ)を当てていたのだ。
 そのように漢字の導入当初は用いられていた訓読みが朝鮮半島で定着しなかった理由は様々に考え得る。漢字を発明した陸続きで接する強大な隣国は常に高句麗や新羅や百済にとって脅威であった。時には戦争もしたし、その結果、屈服せざるを得ない時期もあった。そんな国の文化と自国の文化の間に一線を画したかったのかもしれない。あるいは、それより後の李氏朝鮮時代における両班(ヤンバン)による文化の私物化が原因なのかもしれない。漢文を操り庶民からは懸け離れた文化的伝統に固執した両班(ヤンバン)階層は、15世紀に制定されたハングルを排斥して文化の独占を持続しようとした。そのような支配層にとっては漢字に訓読みを付すことなど無用であるばかりでなく百害の元であっただろう。
 だが、私にはそれだけだとは思えない。日本語の音は必ず子音+母音であり、これは古代でも同じであった。このことが大きく関係していると思うのである。当時の日本が漢字を受け入れるには相当な苦労をしたであろうことは想像に難くない。当時の中国語の四声(ししょう)は現代標準中国語の四声(しせい)とは些か異なっており、平声(ひょうしょう)、上声(じょうしょう)、去声(きょしょう)、入声(にっしょう)の四つであった。この入声(にっしょう)は、現代中国語では南方方言に残っているが、現代北方語では最早みられない。韻尾に子音がくっついたもので、日本の漢字の音読みにもその痕跡が認められる。
 先に母音の“え”の話で“殺”の現代中国音は“sha”だと言った。しかし、日本語の音読みは漢音で“サツ”、呉音で“セチ”であり、一音ではなく二音の読みになっている。もう一例挙げると、“陸”は漢音で“リク”で呉音では“ロク”だが、現代中国語音は“lu”であって韻尾に子音はない。これらは、漢や呉の時代には入声(にっしょう)であって、韻尾に“t”あるいは“k”がついていたということなのである。日本語には子音だけの音がないので、これらの音を真似る際にはどうしても韻尾子音に母音を付加して発音することになってしまった。日本語の中に漢字を生かそうとするとどうしてもそうせざるを得なかったのである。
 ところが、朝鮮語には子音だけの音が存在する。入声(にっしょう)もパッチム(終声子音)で処理できてしまうのだ。漢字を導入した当初から今に至るまで、朝鮮半島では中国音が違和感なく受け入れられ得るのに対して日本列島では日本語風に大きく変化させなければならないのである。この差は大きい。朝鮮語では漢語はすんなり受け入れられたが、そのかわり、いつまでも外国語のままだった。だが、日本に導入された漢語は苦心惨憺した挙句に日本語風にアレンジされた。だが、導入された途端に日本語になってしまった。いや、あたかも日本語であるかのように受け入れられてしまったのだ。違和感が大きい分だけ、それを乗り越えて受容されてしまうと、その違和感は簡単に忘れ去られてしまうとも言える。
 “銭”の“ゼニ”という読みが訓読みだと思っている人は多い。若い人に“菊”の“キク”が音読みだと言ったら、「嘘!」と疑いの眼で見られてしまう。それほどに漢字は日本語に同化しているのだ。音読みも日本語だと認識するのだから、その漢字の意味から当て嵌められた大和言葉の訓読みと区別するという発想は生まれてこない。「漢字には色んな読み方がある」という単純な感覚で全てが許容される。日本語と朝鮮語での漢字の在り様が異なる原因の一つはそれぞれの言葉の音素体系にあることは間違いない。
 他にも理由はあるだろう。用言の活用方式が異なることも大きな要素であることは大して考えなくても理解できる。日本語の用言の活用が“送り仮名”という考え方を生み出し得るものであったからこそ容易に大和言葉に漢字を当て嵌めることができたのだ。朝鮮語で日本語のような仮名が発展することは有り得ないことだった。子音のみの音素の存在とともに、語尾の変化様式が仮名を連ねるだけの単純な作業では達成できないものであったということなのである。仮名方式ではなくアルファベット方式の文字でなければ朝鮮語を適切に書き記すことはできない。そのような見方で、ハングルを観察してみると、これが実に合理的な文字であることに舌を巻く。「訓民正音」作成の号令を発した李朝の世宗の英断と、それに応えてかくも独創的な文字を開発した彼のスタッフに改めて敬意を表したい。

 さて、おまけの話が長くなってしまった。私の独断と偏見に満ちた説を読者諸氏が忘れてしまわないよう、もう一度まとめておきたい。古代日本語と朝鮮語には母音調和という現象とともに“L(R)”を排除するという頭音法則があった。朝鮮語ではその伝統が現代に至るまで引き継がれているのに、日本語では影も形もなくなってしまった。その変化の根底には日本語の音素が50音表に整理しえるものであったこと、即ち“ん”を除く全ての音素が子音+母音であるという事実が潜んでいる。これが私の考察結果である。ご賛同いただけるか否かを推し量る術もないが、賛同者の有無に関わらず私はそう信じている。
 ついでに馬鹿げた妄想を一つ申し加えるが、極東の一部の地域に見られる“L(R)”排除の頭音法則はその地域に生まれ育った者たちが外国語を操ることに長けていないことに関係しているのではあるまいか。当然、日本人もこのグループに含まれる。“L(R)”排除の頭音法則はなくなっているが、その出発点となったであろう“L(R)”の発音が苦手だという特質は失われていないからである。この特質は“L”と“R”の区別をなくすという結果ももたらしており、このこともまた“L”と“R”とを厳密に区別しなければ通じない外国語をマスターする障害になっているに違いない。
 私には英語のことしか分からないが、日本人も韓国人も間違いなく英語は下手糞だ。しかし、この現象を上で述べたように論理的に説明したのでは面白くない。空想好きの私としては次のように表現したい。「好きこそ物の上手なれ」、これこそが日本人や韓国人の英語下手の元だと言いたいのだ。誤解しないでいただきたい。英語が好きか嫌いかを言っているのではない。“L(R)”の発音が嫌いだと言っているのだ。左様、日本人も韓国人も“L(R)”の発音が苦手なのはそもそも“L(R)”が嫌いだからなのだ。そう考えた方が面白いではないか。この空想を古代にまで広げるともっと楽しい。「俺ぁ“ら・り・る・れ・ろ”が大嫌いさネ。舌に力が入って硬直しそうじゃねぇか。俺たちはモゴモゴ喋るのがお似合いさ。“ら・り・る・れ・ろ”で始まる言葉は別の言葉に換えちまうべぇ。」古代日本人がこんなことを言って愚痴っているところを想像するのだ。周りの者たちも口々に言うことだろう。「んだ。んだ。それが良かんべ。“ら・り・る・れ・ろ”なんざ糞っ食らえだ」とまぁ、こんな具合に騒いでいる。それが、因果応報で、何千年か後の子孫の外国語下手になって返ってくるとは夢にも思わず騒いでいるのだ。これが事実なら思わず笑いがこみ上げてくる。どうであろうか。こっちの想像の方なら賛同者というか相乗りしてくださる読者が多いのではないかと思うのだが・・・

(2004年12月18日)


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タイムマシンがあったらなぁ<その2:お稲荷さん>

 前々から、お稲荷さんが気になっていた。何が気になるかと言うと、その正体が怪しげなことである。「歴史も祭神もはっきりしているから、ちっとも怪しくない」とお叱りを受けそうだが、私は一人であれやこれや考えては首を傾げているのだ。勿論、お稲荷さんについての通り一遍の知識は持っているつもりだ。江戸で嫌と言うほど在るものは“伊勢屋稲荷に犬の糞”だったそうだが、お江戸の町でなくとも、お稲荷さんは嫌と言うほどある。ただ、由緒正しい稲荷神社は全国22社であり、その総本社は京都伏見の稲荷神社(一般には伏見稲荷大社と呼ばれている)である。その伏見稲荷の創祀者は秦公伊呂具(はたのきみいろく)だといわれている。和銅4年、西暦で言えば711年から祀られているというから相当に古い。鎮座する神々はウカノミタマノカミ、サルタヒコノミコト、それにオオミヤノメノミコトの3柱である。
 お稲荷さんに狐の化身とされる荼吉尼天(だきにてん)を祀るのは、真言密教と稲荷信仰とが接近してからのことであり、ダキニテンはイナリの本来の神ではない。今や白狐そのものも神にされているが、本来は神ではなく神の使いにすぎなかったと思われる。しかも、最初からお稲荷さんに狐が付き物であったのかどうかさえ分からない。普通なら狛犬がいるべき座をお稲荷さんでは狐が占めるようになったのはいつごろのことやらさっぱり見当もつかないということだ。しかし、私が怪しいと言っているのはこのお狐さんのことではない。いかにも判然としているように見える秦公伊呂具という人物と3柱の神々とが腑に落ちないのである。その辺りをいつものように取り留めなく書き連ねていこうと思う。
 左様、「タイムマシンがあったらなぁ」と思いつつ空想を逞しくしようという訳である。毎度のことながら(とは言え、このシリーズはまだ二回目だが)、ここに書くことは学問的な裏付けのあることばかりではないので、その点については予めご諒解願っておきたい。また、諸学の説を使わせていただくこともあるが、学術的な著述ではないので出典については省略させていただく。この点についてもお許し願いたい。

 さて、伏見稲荷はその名の通り京都市南部の東側、伏見は深草というところにある。伏見と言えば、日本酒嫌いの私にでさえ酒が思い出される。酒どころは良質の水に恵まれた地域と相場がきまっているが、深草も例外ではない。良水が豊富だということは稲作にも適しているということになるから、伏見近辺は、名物といえば畑で採れる野菜ばかりである京都にしては珍しい米どころでもある。と言うか、米あっての酒造りなのだから、米が採れなくてどうすると言わねばならないのかもしれない(尤も、それは昔のことで、今では地元の米を使うことの方が寧ろ珍しい。)とにかく、山国京都にとっては貴重な米の産地ということになる。それで“稲生り(いなり)”なのであって、食べ物あるいは穀物の神であるウカノミタマノカミが祀られているのだと説明されている。もっともらしいし、一見、筋も通っている。「怪しいことなどない」とお叱りを受けても致し方ないかもしれない。
 山城国風土記逸文に稲荷神社の創祀伝説があるが、それによると、秦公伊呂具が餅を的にして矢を射ると、その的が白鳥になって稲荷山の峰に飛んでいったという。当時は、現在の私たちが意識している以上に餅が貴重品だったと考えられる。伊呂具はなんとも罰当たりなことをしたものだ。別の地方に伝わる類似した伝承では、稲魂(いなだま)の化身たる白鳥が飛んで行った後の田に米が実ることはなく、餅を的にして矢を射るなんて罰当たりな行為をした人物は没落するのが常である。しかし、秦公伊呂具の場合には、そのような没落譚はすっかり抜け落ちている。その点については様々な見解があるそうだが、それはともかく、風土記逸文の記述に従えば、白鳥が舞い降りた稲荷山の峰に「伊禰奈利生ひき(稲成り生いき)」で「遂に社の名と為(な)しき」なのだそうだ。 “伊禰奈利”が“稲生り”のことだというのは現代の学者の考察ではなく、山城国風土記が書かれ始めたであろう8世紀初頭から言われていることらしいのである(元明天皇による風土記編纂の詔は713年に発せられている。)
   稲荷山には秦氏定着以前の古墳があり、それに加えて秦氏のものと考えられる古墳が作り足されているそうである。従って、現代の学者は、この白鳥伝説を葬場(新旧の古墳造営地)における死からの再生を表現したものだと分析している。確かに、稲荷山から再び飛び立った白鳥の最終到達点は更に北の鳥辺山だったという。鳥辺山の麓の鳥辺野も葬場であり、白鳥は墓から墓へと渡って行ったことになる。死からの再生を物語ったという考察は極めて合理的である。しかも、甦りの考えは仏教の輪廻思想伝来以前から古代人に共通して見られるものだったようで、穀物の種から収穫に至る過程も死からの再生として捉えていたらしい。そう考えれば、甦りの地である稲荷山に甦りのシンボルのような穀物神、即ちウカノミタマノカミを祀ることに疑問を差し挟む余地はなさそうだ。だが、私には矢張り得心できないのだ。
 6世紀中葉に当たる欽明天皇治世下の深草には、秦大津父(はたのおおつち)という人物がいて、この人がこの天皇に甚(いた)く気に入られ(天皇位継承前からのことだが)、後には朝廷の金庫番を任されたほどだったそうだ。秦氏に限らず、渡来人が金庫番を任された第一の理由は読み書き算盤ができたことだと考えるべきだが、それらの能力だけが決め手ではなかったであろう。何よりも“信頼”という要素がなければなるまい。また、そのためにも財力が大きくものを言ったと思われる。秦大津父(はたのおおつち)が天皇の寵愛を受けるに至った話には狼の絡む伝承があって頗(すこぶ)る面白いのだが、主題と関係ないので残念ながらここでは割愛する。ただ、その狼伝説から付随的に知れることとして、秦大津父が山城と伊勢とを行き来する商人であったという事実だけは明らかにしておかなければならない。
 伊勢は上代にあっては全国一と言えるほどの辰砂の産地だった。伊勢に頻繁に出掛けるとなると、秦大津父は辰砂すなわち水銀商人だったと考えるのが穏当だ。そうだとすれば、彼が得ていた利益は並大抵ではなかったと推察される。歴とした豪商だったに違いない。また、日本書紀によると、欽明天皇はその秦大津父を7,053戸を束ねる伴造(とものみやつこ)にしたとある。伴造(とものみやつこ)とは専門技術集団である品部(しなべ)の元締めである。即ち、深草の秦氏には非農耕民の匂いが立ち込めているのである。秦大津父あるいは深草の秦氏は一例に過ぎない。全国に散らばった秦氏のどれをとってみても、農耕民の匂いは薄いと言わざるを得ないのだ。
 単なる伝承だが、秦氏は養蚕と絹織物に長けていたとされている。これを事実とする明確な記録はないが、秦氏が造った太秦の木島神社(このしまじんじゃ)の境内社として養蚕神社(こかいじんじゃ)があることから、事実であった可能性が高い。酒造りを営んでいたことは記録に残っていると聞く(広隆寺の境内に秦氏ゆかりの大酒神社があることや、これまた秦氏が祀った松尾大社が酒造の神だとされていることは、このこととは関係ない。何れの神社も本来は境界を守る神々、即ち “避(さけ)”の神を祀っているのであって、それが“酒”と付会されただけである。)また、秦氏が採鉱、冶金、鍛冶に通じていたことを示す材料にも事欠かない。何より派手なのはその土木技術である。上代に河内(かふち)と呼ばれていた地域(現在の東大阪をイメージに浮かべても大きな誤りはない)の大部分は、当時、大きな湖がある湿地帯だった。大和朝廷はそこを干拓して農地を得ることによって大きな力を持つようになったと考えられている。そのような大土木工事に携わったのは主として秦氏などの渡来人だったそうだ。今に伝えられる河内の茨田堤(まんだづつみ)も秦氏が中心になって築いたものだと考えられている。
 秦氏があちこちの宮殿の垣を作った逸話が多く残っているが、都の中心に位置し大きな権力を持つことを知らしめる長大な皇居の垣根を構築するということは、とりもなおさず、都の主要部分を完成させることに等しく、また、都市計画の概念がなければ迂闊に手を出せない仕事でもある。既存の倭人には安易に手を付けることができない新技術を要する大事業だったのだ。それに、このような事業に秦氏が出資したのは確実らしい。工事の後で位階が上がったり尊号を得たりしているからである。即ち、これら秦氏の頭目が大変な金持ちだったことをも示している。大和朝廷に収奪されるただの農民集団の長ではそれほどの財を成すことはできないであろうことにも留意すべきだ。大きな付加価値を持った物を製造あるいは取引していたと考えなければならないのだ。また、異論もあるらしいが、平安京の造営といえば、そのときに賀茂川の流れを大きく変えたのも秦氏だという説もある。それまでは、賀茂川は今の堀川通を流路としており、後に京の町となる地域は高野川と賀茂川の二つの川で三つに分断されていたらしい。上賀茂から下鴨に至る長大な堤を築いて現在のように今出川通の辺り、即ち宮城より北側で一本の鴨川にしてしまったのである。8世紀末にこれほどの大事業を成し遂げる力量は並大抵のものではない。
 山城の秦氏の本拠地である嵯峨野あるいは葛野(かづの)でも大きな土木工事が行われている。下流は桂川と呼ばれ上流は保津川と呼ばれる川も、嵐山の近辺では大堰川(おおいがわ)と呼ばれる。治水のための大掛かりな堰(せき)を設けたからであり、その工事は5世紀ごろに秦氏が行ったものなのだ。私は、この工事は治水の目的だけに止まらなかったと思う。現在も祇園のあたりに高瀬川という小川があるが、これは江戸時代に作られた水路で、高瀬舟によって人や物資を運んでいた。南へ下ると東高瀬川と呼ばれる。その西側に西高瀬川という川があり、それと区別するためである。現在では南区の辺りでのみしっかりとした川筋が認められるが、元々この西高瀬川は大堰川にまで通じていたと聞く。大堰川の治水工事にともなって、秦氏によって作られたものだということだ。即ち、大堰川の堰からの放水路であり、灌漑用水路なのである。それに加えて、私は、この西高瀬川は、後世の東高瀬川と同様に、運河でもあったと思っている。品部の民も普段は農耕に従事していただろうが、本来は職人や芸人や技術者やその他の非農耕的専門職者だった。そんな集団である秦氏が、大堰川(即ち、保津川)流域の農地を守るためだけに水路を築いて満足したとはとても思えない。平安時代には?(ひらだ)と呼ばれ、後には高瀬舟と呼ばれるような喫水の浅い平底船で物資や人員を運んでいたに違いないのだ。
 私の推測はともかく、斯くの如く、秦氏は技術者・技能者集団であった。そんな非農耕民の代表のような氏族がなぜ伏見の稲荷神社に穀物神を大々的に祀るのだろう。私にはどうしても納得できないのだ。ウカノミタマノカミはスサノオノミコトの子供なのだが、スサノオの同母の兄としてオオトシノカミがいる。このオオトシノカミの系譜は、何故か古事記にのみ記載されており日本書紀には見当たらないが、この神の子供たちはどれもこれも見事に朝鮮半島の神々なのである。朝鮮半島からの渡来人である秦氏にとっては崇敬すべき神々であっただろうし、その神々の叔父に当たることにされたウカノミタマノカミも祀り上げて当然なのかもしれない。そうは思うものの、依然として釈然とはしない。
 米を食料ではなく酒の材料としてだけ栽培するなどということは考えられないし、たとえそうでも、酒造りは深草ではなく葛野の秦氏の仕事だったようだ。勿論、非農耕的氏族とはいえ、上代において、現在の日本のように食糧を外部に依存することは不可能だ。朝廷に収める税である租(そ)に加えて一族郎党が食べていけるだけの穀物は自給しなければならなかっただろう。だから、穀物神を祀っても不審ではない。しかし、本家筋の嵯峨野あるいは葛野を抑えていた秦氏は、上に述べた私の考察通りに、穀物神を一番に祀り上げてはいない。聖徳太子の寵臣であった秦河勝(はたのかわかつ)は自宅に韓神と園神を祀っていたし、嵯峨野の秦氏が造った松尾大社の祭神はオオヤマクイノカミであり、他国との境である山の頂上で睨みを利かせる神だとされている。その神の性格は必ずしもはっきりとはしないが、少なくとも農業神でないことだけは確かだろう。深草の秦氏も、第一に祀るべきは農業神ではないように思えてならないのである。

 先ほど紹介した山城国風土記逸文の記述からは、秦氏がイナリの神を祀る前に稲荷山には何らかの社が存在していたように読み取れる。従って、元々祀られていた穀物神を尊重したのだと考えられなくもない。そのようなことも含めて、ウカノミタマノカミはオオトシノカミに免じて不問に付すとしても、サルタヒコノミコトとオオミヤノメノミコトはどう説明されているのだろうか。真に残念なことに、私が読んだ本の中にこの2神について明快に説明されているものはない。いや、その前に、伏見稲荷神社の祭神が3座だということを問題にして論じた本にすら出くわしていないのである。私は納得できない。何故伏見のお稲荷さんにサルタヒコノミコトとオオミヤノメノミコトが祀られているのか得心できないのである。そこで、各々の神について持っている限りの知識を動員して考えてみたいと思う。
 先ず、サルタヒコノミコトだが、この神は古事記や日本書紀に登場する。天孫降臨に際して、ニニギノミコトの道案内を買って出たという神である。しかし、登場するのはそこだけで、詳しいことは闇に閉ざされた謎の多い神でもある。従って、この神についての面白い考察も多々あるのだが、主題と関係ないのでここでは触れずにおく。ただ、アメノヤチマタ(天上の分かれ道)までニニギノミコトを迎えに出たことから、分かれ道の安全を守る障の神(さえのかみ)と習合されて道祖神信仰の対象にされていること、及び、災いが入って来ることを防ぐという意味合いで庚申待(こうしんまち)で祀られるようになったことのみを確認しておく。蛇足だが、障の神(さえのかみ)はイザナギノミコトが黄泉の国から逃げ帰ったときに投げ捨てた杖から生まれたそうだ。だが、時を経るにつれて姿を変え、男女一対の神あるいはそれを表す陰陽を象った二つの石にされてしまっている。また、庚申待(こうしんまち)を仏式で行う場合は青面金剛(しょうめんこんごう)が祀られる。庚申待は道教の風習に由来するので、それらしい神・仏の類なら何でもよかったのだろう。道祖神にせよ庚申待の神にせよ、後世にはそれほどいい加減に扱われてしまうほど本態不詳の神(サルタヒコノミコト)を、何故渡来人たる秦氏が祀るのだろう。そのこと自体も大いに気になるところだ。
 オオミヤノメノミコトの方もよく分からない。オオミヤノメノミコトというのは、身近な資料では、古語拾遺に出てくるフトダマノミコトの娘であるオオミヤノメノカミのことであろうか。知識不足なのかもしれないが、私には他に思い当たる女神がいないのだ。オオミヤノメノカミなら丹後半島の付け根にある大宮町の大宮売神社(おおみやめじんじゃ)に祀られている。本拠地は丹後だということになる。丹後の女神と秦氏にどんな関わりがあるのだろう。さっぱり見当が付かない。ところで、古語拾遺というのは、807年に斎部宿禰広成(いんべのすくねひろなり)が忌部氏(斎部氏はもと忌部氏と書いた)に伝わる古伝承を平城天皇に撰上したものである。
 フトダマノミコトはアメノコヤネノミコトとともに、天の磐戸にアマテラスオオミカミが隠れたときの祭祀を司った神とされ、忌部氏の祖(おや)とされている。また、オオミヤノメノカミは宮殿に仕え、君(きみ)と臣(おみ)の間を和やかに取り持つ神だそうで、アマテラスオオミカミが天の磐戸から引き出された際にもその御前に侍ったとされている。フトダマノミコトの娘なのだから、この神も当然のこと忌部氏の祖先ということになる。何故、秦氏が忌部氏の祖神の娘を祀るのだろう。秦氏が忌部氏と特別な関係にあったという説を聞いたことはない。フトダマノミコトの同僚であるアメノコヤネノミコトは中臣氏の祖(おや)なのだそうで、中臣氏といえば、大化の政変で中大兄皇子(なかのおおえのおうじ、後の天智天皇)と結んで蘇我氏を倒し、その功で藤原氏を起こすことを許された中臣鎌足(なかとみのかまたり)を思い出す。在地の大物豪族だ。当然、忌部氏も古くからの廷臣である。渡来人の秦氏とどのような関係があるというのであろうか。丹後という地域を抜きにしても、オオミヤノメノミコトを祀る意味は理解できない。
 更に調べると、このオオミヤノメノカミが大物の部類に入ることが分かる。宮中で祭られている神々に数え上げられているのだ。しかも、その中で“御巫祭神八座”と呼ばれる神々に列している。その八座とは、タカミムスビノカミ、カムムスビノカミ、タマツムスビノカミ、イクムスビノカミ、タルムスビノカミ、オオミヤノメノカミ、コトシロヌシノカミ、ミケツカミという錚々(そうそう)たる神々なのである。タカミムスビノカミとカムムスビノカミといえば、日本神話で最初に登場する神であるアメノミナカヌシノカミについで生まれたとされる元締め的な存在である。特に、タカミムスビノカミは、アマテラスオオミカミとともにタカマノハラを取り仕切る神々のドンなのだ。やれやれ、こんな大物と肩を並べる女神と山背(やましろ:古くは大和から見て山の向こうにあるのでこう書かれていた)のような田舎にいる渡来人との間にどんな関係があるというのであろうか。
 尤も、オオミヤノメノミコトとオオミヤノメノカミとでは微妙に違うようにも思える。しかし、古事記ではオオアナモチノカミ(オオクニヌシノミコトの別名だということになっている)と呼ばれる神が出雲国風土記ではオオアナモチノミコトと書かれているように、“ミコト”と“カミ”のいずれもが同一神格に対して用いられることは稀ではないようだ。だが、“ミコト”と“カミ”とは一応異なる言葉ではあるし、字も異なる。ミコトの方の“メ”は“女”と書かれるが、カミの方の“メ”は“売”と書かれている。上代の漢字の遣い方は必ずしも統一されていない。特に、訓音表記の場合には実に様々な表記法が用いられているようだ。古事記と日本書紀を比較するだけでも、同一固有名詞がうんざりするほどに違う表記法で書かれている。 “女”と“売”は同じ甲類(万葉仮名の甲類、乙類については本文の最後に簡単に説明する)に分類される通音なので互換性はあるが、まぁ、 “女”と“売”が文字として異なることには相違ない。もし、オオミヤノメノミコトとオオミヤノメノカミとが別神格なのなら、古語拾遺を引っ張り出してきて頭を捻った私が馬鹿の見本のように惨めに思える。
 しかし、それならそれで忌部氏とは関係のない“大宮女命”がどのような神格なのか改めて想像しなければならないだろう。だが、“大宮の娘”というだけでは何とも想像のしようがない。大宮というのは、埼玉県の大宮のように大きな神社を指すこともあるようだが、普通は宮城(きゅうじょう)のことをいう。大宮が何であれ、名前を明らかにしてもらわなければ、単に“高貴なお方のお嬢さん”としか言いようがないのだから困ってしまうし、そんな意味不明な“お嬢さん”を神として祀られたのでは考察のしようがない。ということで、どっちにせよ、稲荷神社で何故オオミヤノメノミコトが祀られているのかがさっぱり分からないという点においては同じことである。

 私が首を捻っている理由がお分かりいただけたであろうか。とにもかくにも腑に落ちないのであるが、そのままにしておいたのでは欲求不満に陥ってしまう。そこで、何らかの仮説を立てて納得できる答を引き出す手掛かりにしようと思う。何の根拠もない空想にすぎないが、考え方の方向が定まればそれを論証する材料を見つけるという次なる作業に熱中できるのだから、決して無駄なことではないだろう。そう自らを納得させて妄想に耽ることにする。
 伏見という地域だが、単に稲作に適した土地柄だと捉えるだけでいいのだろうか。私には、伏見は山国京都にとっては淀川を介して海に接している、大袈裟に言うなら、一種の港であるという認識がある。上代においても、船で淀川を遡って、淀(桂川、鴨川、宇治川の合流点付近)まで大きな荷を運んでいたことは知られている。その先の伏見にまで比較的大きな船が出入りできたかどうかの確証は得ていないが、深草の南方から宇治にかけて大きな巨椋の池(おぐらのいけ:昭和初期に干拓されて、現在はない)があったことを考えると、深草辺りの鴨川も水量が豊かであったと考えてよいと思う。伏見を水運の拠点として考える根拠はあると言える。
 また、逆方向へ目を転ずるなら、伏見は近江を抜けて東の伊勢あるいは北の越の国(こしのくに:現在の福井から新潟へかけての地域)へ抜ける交通の要衝であるという側面も持っている。職人であり商売人であった秦氏がロジスティックスを重視したであろうことは想像に難くない。先に、欽明天皇と秦大津父(はたのおおつち)の緊密な関係について触れたが、商人であった秦大津父が積極的に天皇に仕えた一番の理由は、朝廷が整備した中央と地方を結ぶ交通路の利用にあったと想像している。古代における長距離旅行は色んな意味において命懸けであった。権力者を後ろ盾にすれば旅に付き物の多くの危険の内の幾つかを回避できることは間違いない。秦氏が伏見を押さえた大きな理由として、淀川を経由する水運の確保と近江、更にはその先の東国や北国への交通路の確保を数え上げてもいいだろう。葛野に勢力をはっていた秦氏が大和から丹波へ通じる陸路(葛野と乙訓の境界)および水路(保津川)を押さえていたことを考えれば、深草の秦氏が同様の狙いを持ってその地に定住したと考えるのは極めて合理的だと思う。
 特に、大和朝廷と出雲、それに大和朝廷と近江から伊勢湾沿岸地域あるいは越の国に至る地域との関係を考えると、秦氏が山城の国で押さえた東西二つの地域の重要性が浮かび上がってくる。出雲は最後まで大和朝廷への服従を拒んだ強大な勢力の本拠地で、大和から出雲へ陸路で抜けるには備後、美作、丹後、丹波のいずれかを通らなければならない。しかも、これらの地には大和朝廷と競合していたと考えられる勢力が割拠していた。大和朝廷はこれらの地域との友好関係を保つことに腐心していたに違いないし、そのような権力者の要求を利用しようとする勢力が大和とそれらの地域の中間点に勢力を広げていてもおかしくはない。葛野あるいは嵯峨野の秦氏がそんな勢力の一つであったと考えてもいいだろう。
 一方、伊勢湾沿岸地域にも、考古学的にみて、古墳時代までは大和朝廷のそれとは異なる文化を持った勢力が栄えていたと考えられている。卑弥呼の晩年に邪馬台国と争った狗奴国は此処にあったとする説もある。その真偽はともかく、この地域が大和朝廷と拮抗しつつ近江から越の方へ勢力を広げていたことは考古学的な事実である。大和朝廷がそのような地域との境界に神経を尖らせていたことは想像に難くない。私には、不可解極まりない伊勢神宮の創建譚も、この辺りに謎解きのヒントがあるように思える。また、「近江どろぼう、伊勢こじき」という悪口にも大きな意味があると思われる。この言葉は、近世になって、“宵越しの銭は持たねぇ”江戸の町人が商売上手あるいは倹約家であった近江や伊勢の商人たちを嘲って(実のところはやっかんで)言ったことだといわれている。しかし、私にはそれだけではなさそうに思える。
 12世紀頃に書かれたといわれる「今昔物語集」に伊勢の国を悪人の巣窟のように罵倒している箇所があるからだ。巻第二十九の「鈴香の山にして、蜂、盗人を螫(さ)し殺せる語」に出てくる「就中(なかんつく)に、伊勢の国は、極(いみじ)き、父母が物をも奪取り、親しき疎きをも不云(いは)ず、貴きも賎きも不?(えらば)ず、互に隙(ひま)を量りて魂を暗まして、弱き者の持ちたる物をば不憚(はばから)ず奪取りて、己が貯(たくはへ)と為(す)る所也」という箇所である。近江や伊勢に対する差別意識は江戸時代に始まったものではなさそうなのだ。もっともっと古くからあり、その底辺には古墳時代に遡ることができる文化的に異なった集団間の確執があると考えるべきだろう。このような問題を細かく論ずる余裕はないが、現在の近畿地方と東海地方あるいは北陸地方との境界地域もまた、上代においては、微妙な位置を占めていたということに疑問を差し挟む余地はない。このような地域は、相対する何れの勢力にも顔向けできる別勢力が活躍すべき場となる。而して、この方面における第三の勢力が深草の秦氏だったのである。
 このように秦氏の定着した深草という地域を水路と陸路の要衝として捉えると、伏見稲荷神社の男神2座と女神1座の計3座の神々についての想像も膨らんでくる。サルタヒコノミコトも抵抗なく受け入れられるのである。先に述べたようにサルタヒコノミコトは謎だらけの神だが、水先案内の神格化されたものだという有力な説があるのだ。“岬”は“御前(みさき)”即ち船を導く役割を担う者の意から転じて、船からの目印になる地形を指すようになったものだと考えられている。それと同時に古代には先導することを“さだる”と言ったことから“さだ”あるいは“さた”というのも船を導くという意味合いで使われるそうだ。全国にある“さだみさき”あるいは“さたみさき”という地名は、この先導することを意味する二つの言葉を重複して用いた例なのだという。
 それで、その先導することを意味する“さだる”が“さるだ”に転じ、更に“さるた”に訛って“サルタヒコ”という神名ができたという説があるのだ。有り得ることだと思う。よく知られた例をあげてみよう。現代人は“新し”を“あたらし”と読むが、元々は“あらたし”であったという。“ら”と“た”が引っ繰り返ってしまったということなのだ。ローカルな例では、京都府の北部に“戸棚”のことを“とだな”ではなく“となだ”という地域がある。“さるた”が“さだる”から転化したとする説には説得力がある。では、本家本元のサルタヒコが何処に祀られているか、また、その神が水先案内に相当する神として祀られているかどうかが問題になる。
 私は出雲国風土記に出てくる4柱の大神に数えられている佐太大神(さだのおおかみ)がサルタヒコノミコトのオリジナルではないかと考えている。上代の出雲国秋鹿郡(あいかのこほり)の神名火山(かむなびやま:現在の朝日山)の麓にある佐太御子神社(佐太大社)に祀られている神である。その神社は岬の突端にあるわけではないが、神名火山は海からの目印としては充分な高さである。更に、サダノオオカミは秋鹿郡(あいかのこほり)の東側の島根郡(しまねのこほり)の加賀の神埼(かかのかむさき)で生まれたとされており、その岬の岩窟には母神であるキサカヒメノミコトを祀る社があるという。佐太大神は、対馬海流に乗ってやってくる船の道標の神格として位置付けられる資格を充分に有していると考えてよいであろう。
 出雲の国引き神話によれば、島根半島は、ヤツカミヅオミヅノノミコトが新羅(しらぎ)や北門国(きたとのくに)や高志国(こしのくに)の余った部分を引っ張り寄せたものだということになっている。その北門から引き寄せられた国の中に狭田国(さだのくに)があり、佐太大神の名はその国の名前に由来するとされている。しかし、それは余りに単純な理解に過ぎる。風土記は出雲大社の元の社である杵築の宮(きづきのみや)について、オオナムチノミコトが大和に出雲国を譲って杵築の宮に引き籠る際に、神々が集ってその宮を築いたので“きづき”だと説明しているが、杵築の宮(きづきのみや)は馬鹿でかい出雲大社にされる前から存在しており、その名も杵築の宮だったのである。従って、そんなことが名前の由来である訳がない。左様、名前の由来などでっち上げが多いのである。人や神の名前と地名の関係を軽々しく決め付けてでっち上げの片棒を担ぐことは避けなければならない。古代人は、佐太大神(さだのおおかみ)の居る国だからその地方を狭田国(さだのくに)の一部だとしたかも知れないのである。
 ところで、風土記によれば、 “杵築”は元々“寸付”と書かれていたそうだ。そのことからも、“きつき”という音が“築く”という意味とは無縁ではないかという疑問が膨らむ。然らば、この“きつき”を“来付”あるいは“木付”という風に読んではいけないだろうか。対馬海流は太古の昔から海のハイウェーだった。出雲にも、人を乗せた船だけでなく様々な動植物や流木が流れ着いたことだろう。オオクニヌシノミコトが祀られる前の杵築社の祭神は龍蛇神であったと思われるが、出雲大社や佐太大社には対馬海流に乗って南の海から流れ着くセグロウミヘビを供える風習があるそうだ。また、何処のことだったかは忘れてしまったが、日本海側の海沿いの地に、寄木(よりき:流木のこと)を神聖なものと見なして祀った神社があったと聞いたこともある。
 島根半島の西端にある杵築の宮が“来付”あるいは“木付”の宮であってもおかしくはないと思うのである。そこで、ちょいと調べてみると、“寸”は甲類の“き”であった。当然、“杵”も甲類だ。残念ながら “木”は乙類であり、“寸”や“杵”と置き換えることはできないことが分かったが、“来”は甲類であり“来付”と“寸付”が通音だということが分かった。即ち、この“来付”という発想は有り得るのだ。ただ、上代において“来たりて著(つ)く”という意味合いを“来著(きつ)く”あるいは“来付(きつ)く”と言い回したかどうかは素人の私には判断できない。
 しかし、似たような表現なら幾つか例を挙げることができる。“来寄する”という言い回しが常陸国風土記や万葉集に見ることができるのだ。常陸国風土記の例は、茨城の郡(うばらきのこほり)の部分に載っている歌である。「高浜に 来寄する浪の(支与須留奈弥乃) 沖つ浪 寄すとも寄らじ 子らにし寄らば」とあるのだ。万葉集には“来鳴く”という例も多数みられる。また、“来立つ”、“来通ふ”、“来棲む”、“来向ふ”、“来継ぐ”それに“来居て”あるいは“来居つつ”という表現も見られる。更に、現代人には馴染みがないが、“来経(きふ:年月が過ぎていく)”とか“来及く(きしく:頻りに来る)”というのも出てくる。即ち、“来(く)”というカ行変格活用の動詞は他の動詞を伴って複合動詞を作ることが稀ではないということなのである。“来たる”という四段活用動詞からして、“来(く)”+“至る”なのだということだ。“来寄する”や“来鳴く”や“来立つ”や“来居つつ”などがあるのなら、“来著(きつ)く”あるいは“来付く”があってもおかしくはあるまい。
 それに、島根半島の西から東に至る主だった神社が悉く渡海あるいは航海に関係していると想定するのは極めて合理的な考えだと思う。龍蛇神を祀る風習は農耕民だけでなく海人にも色濃く見られるし、島根半島の東端にある三保神社などは航海の神を祀っていることが神名に表れている。ここに祀られるミホススミノカミは烽火(のろし)の神格化されたものだということだ(“すすみ”は烽火をあらわす古語なのだそうだ。)烽火(のろし)は航海者にとっては生死を別けるほどに重大なものだから、神として扱われて当然なのである。
 ながながと出雲の話をしてしまったが、要するに、伏見を山国京都の港と見なせば、そこにサタノオオカミことサルタヒコノミコトを祀ってもちっともおかしくはないと言いたかったのである。伏見=港などと考えていると、呆れ顔で「馬鹿なことを」と言われそうだが、この発想にはもう一つ理由があるのだ。それは、稲荷神社を祭り始めたという秦公伊呂具(はたのきみいろく)というのは記録の筆写ミスで、本当の名前は伊呂巨(いろこ)だという説があることなのである。“いろこ”というのは魚の鱗(うろこ)の古名だが、この秦公伊呂巨(はたのきみいろこ)の子孫には魚の名前を名乗る人物が多いというのもその説を支持する根拠だとされている。これは私にとっては魅力的な説だ。稲荷社の創祀者が魚、即ち水に関係していたのなら、秦氏が伏見を水運の拠点にしていたとする考えもまんざら見当外れではないからだ。

 3座の中の女神については、以下のように考えてみようと思う。秦氏は明らかに朝鮮半島からの渡来人の集団である(古事記には百済からの渡来人とあるが、実際には新羅系だと考えられている。)当然のこととして、その信仰対象や信仰様式は朝鮮半島のそれであっただろう。日本と違って、古代朝鮮半島では複数の中央集権型の王国が並立していた。しかし、それらの建国神話には共通点が多い。先ず、例外なく建国の祖や血筋の違う後継者は天から降臨している。北方から侵入してきたツングース系の扶余族が興した高句麗だけでなく、在来勢力(ツングース系も混ざっていてもおかしくはないが)の国である新羅や伽耶もそうだし、檀君(だんぐん)神話により最も古い国とされる古朝鮮も然りである。百済は高句麗の始祖の子供が開いた国とされているので、神話は高句麗と共通のものだ。高麗あたりの新しい国になると建国に当たって神話が生まれる余地は最早ないので考察の対象外となる。
 二番目の特徴としては彼らの多くについて卵生説話と日光感精説話が伝えられていることが上げられる。この卵生説話に注目したいのである。説話は時代とともに変化していくものであり、卵生説話も例外ではない。単純な貴種卵生譚から卵を海に流す話へと、更に、卵を産んだ母親も一緒に海に流される話へと発展していった。そのような変遷過程の最終段階として、現在も日本や韓国の海辺に見られる母子神信仰へと定着していったのだという説があるのだ。渡来人により日本で創始された神社に、この母子神信仰が持ち込まれた例を示している学者もいる。その実例とは、ヤハタの神だという。確かに、八幡様の本社とされる宇佐八幡宮には神功皇后と応神天皇の母子が祀られている。八幡大菩薩=応神天皇という図式は、大和朝廷側の作為に基づく創作で、元々の八幡神は渡来人が崇敬するヤハタの母子神であったというのである。大隈正八幡宮を名乗る鹿児島神社の祭神はヤハタノカミとその母神であるオオヒルメノカミだというから、宇佐神宮の神も最初は神功皇后や応神天皇ではなかったのだろう。
 さて、山国に進出した渡来人集団の秦氏にとって伏見を港と見なす考え方があったなら、その地に母子神信仰を持ち込んでも不思議はない。稲荷山に元々祀られていた農業神をオオトシノカミの兄弟であるウカノミタマノカミと見なすにつけては、その母神も同時に祀ったに相違ないのだ。ただ、ウカノミタマノカミの母親はオオヤマツミノカミの娘であるカムオオチヒメであり、有名どころではない。そこで、当時の有力氏族の祖先でもあり、“大宮”という最高権力者との関係を仄めかす言葉を名前に含むオオミヤノメノカミをモデルにした名前を作り出したのではないだろうか。それがオオミヤノメノミコトだと考えれば、秦氏と忌部氏との関係などを気にすることなくこの神を稲荷社の神として受け入れることができる。
 新しい神の名前を創造するのはそう珍しいことではない。豊前の香春神社(かはらじんじゃ)の神の名は創作で、アメノオシホミミノミコト(天孫降臨で知られるニニギノミコトノの父親)からオシホネノミコトを、また、オキナガタラシヒメノミコト(神功皇后のこと)からカラクニオキナガオオヒメオオメノミコトを作ったと考えられている。伏見の女神を、カムオオチヒメから大宮売神(オオミヤノメノカミ)にちょっと手を加えた大宮女命(オオミヤノメノミコト)に変えてしまうことなどお茶の子さいさいだったことだろう。

 ところで、仮説が最終段階に来てからこんなことを言い出すのは気が引けるが、伏見稲荷三座の神々が創建当時から変わっていないのかどうかについては未だ確認していない。どんなに由緒正しい神社でも、祭神が変わることは勿論、当初は祀られていなかった神がいつの間にか居座っていたなどということは珍しいことではなかったようだ。松尾大社には、秦忌寸都理(はたのいみきとり)が701年に宗像神社からイチキシマヒメノミコトを勧請して創建したという伝承が残っている。しかし、もう一座の神がオオヤマクイノカミであり、この神を追加したという記録が残っていないことを考えると、元々の祭神がオオヤマクイノカミであり、701年にイチキシマヒメノミコトが追加されたと見た方が自然であろう。オオヤマクイノカミが朝鮮半島の神であることも、そのように考えることの合理性を示す重要なポイントだ。
 もし、伏見のお稲荷さんでも同じようなことが行われており、その結果として現在ウカノミタマノカミとサルタヒコノミコトとオオミヤノメノミコトが鎮座しているとすると、上に述べた私の仮説は全く無意味なものになってしまうのである。まずはこの点から確認していかねばならないということなのだが、そのことを私は未だ確認していないのである。如何なる神名帳(じんみょうちょう)も持たず、それらを所蔵する図書館に行く暇がないからである。ただ、私にとって救いとなる事実もある。創建当時から、伏見神社には稲荷山の一、二及び三ノ峰それぞれに社があり、上社、中社(本社)、下社とされていたということである。豊前の香春神社のように伏見稲荷に似た祭神構成を持つ神社の例から、本社に母子神2柱が祀られ、他の2社にはそれぞれ母神と別の神が祀られていたと考えることが可能なのである。
 だが、この仮説が正しいこと、あるいは、正しくないことを示す資料はあるのだろうか。そんなことすら、今のところは調べていない。古代史というのは、やはり、素人には荷の重いテーマなのかもしれない。夢想家としては、地道な資料調べをするより、タイムマシンで当時の山城の国へ赴き、秦公伊呂巨(はたのきみいろこ)にインタビューを申し込みたいという衝動を抑えきれない。最初の質問は、勿論、「貴方の名前は伊呂巨(いろこ)ですか、それとも伊呂具(いろく)ですか?」ということになるだろう。それに続く質問も既に頭の中にしっかりと整理されている。タイムマシンさえあれば即座に謎は氷解するのだ。
 いや、待てよ。当時の日本語の発音は現在の日本語とはまるっきり違っていたらしい。いろは47文字+濁音+半濁音+“ん”の68音ではなく、88音もあったそうなのだ。“ん”はなかったものの、YE・WI・WE・WOが存在していたのに加え、キ・ギ・ケ・ゲ・コ・ゴ・ソ・ゾ・ト・ド・ノ・ハ・バ・ヘ・ベ・ミ・メ・モ・ヨ・ロといった現在では一つの音と認識されているものが二類に分かれていたというのである(それを甲類及び乙類と呼び習わしている。)先ほど、“寸付”を“来付”と読めないかというアイデアについてややこしい考察を加えたのは、この現代では消えてしまっている音が上代の万葉仮名では書き別けられていたからなのである。こんなややこしいことを古文献を読むことだけで解き明かした本居宣長を始めとする研究者諸氏には心からの敬意を表するが、素朴な感想(本音)としては「なんとも厄介な問題を穿り出してくれたものだ」と言わなければならない。タイムマシンが開発されても、上代日本語をマスターしておかなければ、古代人へのインタビューは不可能だからである。津軽方言や沖縄方言でさえマスターできないのだから、古代日本語会話は相当に難しそうだ。やれやれ、タイムマシンに頼るだけで解決するほど古代史は甘いものではなかったようだ。兎に角、地道に勉強するしか手はないようなのである。時間を作って図書館通いということになりそうだ。とはいえ、同じく時間を使って勉強するのなら、やはり、最後にはタイムマシンで事実をこの目で見たいものだ。
 私の仮説には納得していただけなくても、最後に述べたこの素朴な欲望には共感していただけるものと思いつつ、この辺りでお稲荷さんに纏わる妄想に幕を下ろすことにしよう。

(2004年11月21日)


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言葉遊び・和歌・枕詞

 日本人は言葉遊びが大好きとみえます。若いギャルたちから「親父ギャグって最低よね」と軽蔑されながら、親父どもは駄洒落の類を連発し続けるのであります。これを言葉遊び好きと言わずして何と言えばよいのでありましょうや。と見得を切ったのはいいのですが、この私、外国にどのような言葉遊びがあるのやらさっぱり知らないのです。従って、この意見は、他国の人々と比較しての評価ではなく、単なる日常生活における親父族観察者の薄らぼんやりした実感だとご理解ください。
 ところで、現代人のみならず、どうやら大昔の日本の人々も言葉遊びが好きだったようです。何故って、暇に任せて万葉集なんぞをペラペラめくっていると、「何を遊んでるんだか」と言いたくなるような歌に数多く出くわすからなのです。例えば、長歌(ちょうか)が少なくて、旋頭歌(せどうか)は幾つか混ざっているものの、短歌がずらっと並んでいる巻の十から十二あたりを覗いてみるだけで、次に上げるような妙に作為的な歌を拾い上げることができます。
  @春日野に友うぐひすの鳴き別れ帰ります間も思ほせ吾を
  A露霜のさむき夕(ゆふべ)の秋風にもみちにけりも妻梨の木は
  B天の川棚橋わたせ織女(たなばた)のい渡らさむに棚橋わたせ
  C秋の田をわが刈りばかの過ぎぬれば雁が音聞ゆ冬片設(かたま)けて
  D路のべのいちしの花のいちしろく人皆知りぬわが恋妻は
  E国栖(くにす)等が春菜つむらむ司馬(しま)の野のしましま君を思ふこのころ
  F春さればすがるなす野のほととぎすほとほと妹にあはず来にけり
  G一日には千重(ちへ)しくしくにわが恋ふる妹があたりに時雨(しぐれ)ふれ見む
  H天雲に翼(はね)うちつけて飛ぶたづのたづたづしかも君いまさねば
  I住吉(すみのえ)の岸の裏廻(うらみ)に重(し)く波のしくしく妹を見むよしもがも
 どうです? @とAは情景を形作るために自然物を語呂よく挿入したものですが、Aの方は「その手はクワナの焼き蛤」とか「当りマエダのクラッカー」の類の掛詞(かけことば)だと認識できます。“妻無し”の自分を“梨の木”に見立てて、侘しさを紅葉に仮託しているものですが、掛詞(かけことば)である以上、私の目には歌心よりは遊び心が勝っているように感じられます。では、@はどうでしょうか。「合点承知のスケ」や「あたりきしゃりき、馬のけつブリキ」といった類と同じと言ったら怒られますかな。鶯の声に触発された歌だとはとても思えません。“泣き別れ”を“鳴き別れ”から引き出すために、無理やり鶯を持ち出してきただけではありませんか。B〜Dは諸に音合わせで、Bでは“たな”、Cでは“かり”、Dでは“いちし”という音を重ねて喜んでいるんです。親父ギャグの駄洒落よりはウントコサ増しではありますが、やはり作為が目だっていて考え様によっては厭味です。E〜Iは説明の必要もないでしょう。そろそろ駄洒落の域に入りかけていると思いますが、読者の皆さんはどう思われますかな?
 とにかく、日本では大昔からこんな風に言葉で遊ぶことが流行っていたということなのであります。その道具として和歌があったと言いたいほどです。勿論、和歌が持っていた当時の社会的というか社交的というか、あるいは政治的とまでいえる程に重要な役割を無視するつもりはありません。しかし、やはりその根底には旺盛なる遊び心があったと想定してもいいのではないかと思うのです。例えば、万葉集の巻十の問答歌は笑えますよ。
  J門(かど)たてて戸も閉(さ)したるをいづくゆか妹が入り来て夢(いめ)に見えつる
  K門(かど)たてて戸も閉(さ)したれど盗人(ぬすびと)